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「読書が好き=知的」という呪い『現代思想2024年9月号 特集=読むことの現在』


 「読書が好き」「読書が趣味です」と言うと、褒められる。賢い人だと思われる。それが嫌で、だから読書についてはあまり人と話さないようにしている。
 どうしても、世間の「読むこと」に対するイメージには迎合できない。それでも、仕方ないこととして諦めていた。この気持ちも、周りにいる大半の人はきっと分かってくれないんだろう。
 そんな風に思いながら、大学図書館で本を物色していたら、この本を見つけた。

「読書離れ」が叫ばれて久しい一方、インターネットを通じた読書会が盛んに行われ、本の読み方を主題にした書籍や動画も広く受け入れられている。くわえて読書バリアフリー法が施行されるなど、書籍というメディアへのアクセシビリティも問われつつある。本特集では、多様な読み手の実践にも迫りながら、読むという営みのゆくえを広く考えたい。

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3962

 「読むこと」についての特集ということで、なんとなく興味を惹かれて借りてみた。
 



「読む」のは、誰?

 「本を読む人は、知的」という世間に流布したイメージを分解してみると、そこには、「○○な人は、本を読まない」という含意がある。例えば、「認知症の人は、本を読まない」「LD(学習障害)の人は、本を読まない」「貧困層は、本を読まない」

 重い本を鞄に入れて移動する人に、「kindleで読まないの?」と訊くと、少々自慢げに「だって、紙の本じゃないと」と、こだわりを語られることは、少なくないと思う(というか、わたしの叔母がそう)。わたしも紙派なので、そういう人の気持ちは、よく分かる。
 しかし、識字障害や視覚的な障害があったり、何らかの理由で本を手に持てないなどの理由で、情報へのアクセスを拒まれる人がいる。そのような人たちの、電子書籍へのニーズは切実だ。その認識が、どうしてか人口に膾炙していない。それでいて、「やっぱり、紙の本じゃないと」という読書家の声ばかりが、こんなに大きいのはどうしてだろう。

電子書籍については、電子書籍化したくないという著者もけっこういらっしゃいます。理由はそれぞれなんですが、理屈抜きに「やっぱり紙の本がいいよねぇ」と言われて、返事に困ることもあります。 (中略) 紙の本と電子書籍の両方があるのが一番だと思っています。階段とエレベーターとどちらのほうがいいのかと議論するのは、むしろおかしなことではないかと。紙の本が好きだとしても、なぜあんなに電子書籍を嫌がるのか不思議なことがあります。

「合理的調整としてのバリアフリー」『現代思想2024年9月号 特集=読むことの現在』p.11

 読み始めてまず思ったのは、「あれ、読むってこんなにマッチョな行為だったの?」ということ。
 わたしも世の本好きの御多分に洩れず、「本(だけ)は自分に優しい」と思ってきた。本とわたしとの関係性は、どこまでも穏やかだった。まず、本を読むのはひとりぼっちでもできる。自分だけで淡々と好きに読むことができて、その上、本はどこにでも肌身離さず持って行けるし、基本的に、どこで読んでもいい。眠る前に、布団の中で読むこともできるし、お腹の調子がおかしくなった時でも、お腹を温めてじっとしながら本を読める。疲れるほど体力を使うこともない。社会への新しい視座を与えてくれるのは常に本だった。
 それが特権だということを、今まで深く考えて来なかった。「読書をする人は、知的だ」という発想にモヤモヤする自分の足元で、更に深刻に苦しんでいる人たちがいることに、気が付かなかった。

言葉は誰にでも平等に与えられているようにみえるが、言葉は媒体を必要とする以上、その媒体の性質に依存することになる。そして、媒体は、言葉の内容の面だけではなく、言葉の形式にも作用する。(中略) 今あなたが当たり前だと思っている言葉の形式が、誰かにとっては障害となりうることを知ってほしいし、ボクもその想像力を失わないでいたい。

「ナナメに読書する 識字障害のボクが作って来た読書との関係性について」『現代思想2024年9
月号 特集=読むことの現在』p. 30

読書会の大切さ


 「読書会のススメ 哲学の教室でル・グィンを読む」
 読書において、細部を読み飛ばさないために有効なのが、読書会らしい。何故なら、他者の見方を知ることで、既成の一般論や、「自己愛的な読み方」を防ぐことができるからだそうだ。

わたしは「自分が読みたいものを書物に読み込んでしまう」あり方を、「自己愛的な読み」と呼んでいる。読んで「分かった」と感じるものが、実は単に自分の鏡像を確認しているにすぎないからだ。

「読書会のススメ 哲学の教室でル・グィンを読む」『現代思想2024年9月号 特集=読むことの現在』p. 63

(前略)「細部」とは、「自己愛的な読み」の視線を逃れるものである。そこに注意を払う訓練をすることで、テクストそれ自体と向き合うことがようやくできるようになるのだ。

同上

 これは、わたしには耳の痛い話。
 
 「自己愛的な読み方」とは、言い得て妙だ。テキストよりも、自分が可愛いということなんだろう。
 誤読というのは、多く「自己愛的な読み方」から生まれるのだろうと思う。
 
 「細部に注意を払う」こととは反対になってしまうが、わたしが誤読を防ぐために、個人的にやっているのは、感想を書く時に初めから終わりまで通したあらすじを、できるだけ丁寧に書くこと。あくまで主観は挟まずに書くが、そこにはどうしても情報の取捨選択が起こる。わたしの解釈を反映したあらすじを書くことで、解釈とストーリーに矛盾が無いことが確かめられる(はず)。昔は、読書感想文であらすじを書く意味が解らなかったけれど、今は、あらすじだけの読書感想文も、全然ありだと思うナ。



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