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たそがれ時には私も世界も複数になる -柳田國男から見直す『君の名は。』と『鬼滅の刃』-

黄昏を雀色時(すずめいろどき)ということは、誰が言い始めたか知らぬが、日本人でなければこしらえられぬ新語であった。雀の羽がどんな色をしているのかなどは、知らぬものもないようなものの、さてそれを言葉に表わそうとすると、だんだんにぼんやりして来る。これがちょうど又夕方の心持でもあった。すなわち夕方が雀の色をしているゆえに、そう言ったのではないと思われる。古くからの日本語の中にも、この心持は相応によく表われている。例えばタソガレは「誰そ彼は」であり、カハタレは「彼は誰」であった。夜の未明をシノノメといい、さては又イナノメといったのも、あるいはこれと同じことであったかもしれない。

(柳田國男「かはたれ時」『妖怪談義』講談社学術文庫 p36)

今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。30年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を2人まで鉞(まさかり)で斫(き)り殺したことがあった。
女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が1人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
眼が覚めて見ると、小屋の口一っぱいに夕日がさしていた。秋の末のことであったという。二人の子供がその日当たりのところにしゃがんで、頻(しき)りに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(と)いでいた。阿爺(おとう)、これでわたしらを殺してくれといったそうである。そうして入り口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて牢に入れられた。
この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中に出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分からなくなってしまった。私は仔細あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持(ながもち)の底で蝕み朽ちつつあるのであろう。

(柳田國男「山に埋もれたる人生あること」『遠野物語 山の人生』岩波文庫 pp.93-94)

柳田國男の2つのエッセイは、ここ10年にヒットした2つのアニメ作品を思い起こさせる。

「かはたれ時」は、『君の名は。』(2016)を。
「山に埋もれたる人生あること」は、『鬼滅の刃』(2016-2020)を。
 
そして、柳田のこれらエッセイは、ある世界観をベースにしている。
世界は一つではなく複数ある、という世界観である。
 
「かはたれ時」では黄昏という時間帯が、世界を2つに分ける。
『君の名は。』では高校の古典の授業のシーンで板書されていた。
「黄昏時」、「逢魔が時」、そして「誰そ彼」と書いてから先生は、「かわたれ時とも言うわね」と付け加えていた。

『君の名は。』(2016)より

生徒が「かたわれ時は?」と問うと、先生はこの地方の方言だろうと応える。複数世界は古典の世界の世界にとどまらないことが仄めかされるシーンだ。
 
このシーンでは2人主人公、三葉と瀧が入れ替わっていたことも示唆されていた。
 
身体の中に別人格が入り込むなら、ジキルとハイドのような二重人格のスリラーになるが、この作品ではそうはならない。
むしろ一つの人格が二つの世界を行き来する方向で話が進む。
 
校庭で、『月刊 ムー』の読者の男子生徒が理論物理学者ヒュー・エヴェレットの「多世界解釈」を前世の記憶に結びつけた「トンデモ記事」を見せると、人格の複数性から世界の複数性に話の重心が移る、というダメ押しもある。
 
以上の手順でタイムリープ可能な世界が出来上がるのだろう。
その世界は、平面的な空間と直線的な時間でできたデジタルに区分可能な世界のようだ。
 
2つの世界を行き来するとき、行き来する人の人格は変わらない。
記憶を失うことはあるが、歳も取らず、若返りもしない。成長も退行もしない。
 
数字やデータが並ぶデジタルでサイバーな時空を往来するかのようである。
 
では、「逢魔が時」とも言われる「かわたれ時」はどうなったのだろう?

魑魅魍魎が跋扈する闇夜に向かう、世界の輪郭を曖昧にする黄昏への言いようもない恐れを伴う時は、数字で表される平坦な時間にすり替わったのだろうか?
 
そんなことを考えると、主人公たちの「とりかえばや」より、時空の「とりかえばや」の方が気になって物語に集中できず、映画の途中で映画館から出てしまった。
 

 
『妖怪談義』という本で、「かはたれ時」というエッセイは「妖怪談義」というエッセイの後に続いている。
闇の中に跋扈する者たちの話の後に、夕暮れが恐れや不安の入り混じる時として感じられるように「かはたれ時」が配置されている。
 
このエッセイの最後はこうだ。

鬼と旅人とをほぼ同じ不安を以て、迎え見送っていたのも久しいことであった。ところがその不安も少しずつ単調になって、次第に日の暮れは門の口に立って、人を見ていたいというような時刻になって来た。子供がはしゃいでかえりたがらぬのもこの時刻、あてもなしに多くの若い人々が、空を眺めるのもこの時刻であった。そうしてわれわれがこわいという感じを忘れたがために、かえって黄昏の危険は数しげくなっているのである。

(柳田國男「かはたれ時」『妖怪談義』講談社学術文庫 p38)

この下を読むと、徐々にゆっくりと、恐れや不安がなくなる方向に日本の近代は向かって行ったのだろう。
 
一方、闇夜に鬼が跋扈することを戒めて、峠の小屋に炭治郎が一晩泊まるところから始まるのが『鬼滅の刃』である。おそらく「鬼と旅人とをほぼ同じ不安を以て、迎え見送っていた」頃の話だ。
 
夜が明けて山に戻ると、母親も兄弟姉妹たちも鬼に食われ、惨殺されて、妹の禰󠄀豆子だけが息絶え絶えに生きていた。
 
昼と夜、光と闇の2つの世界に棲み分けているかのような人と鬼は、黄昏時の曖昧さゆえか、境界を踏み越える理不尽さが物語を進めるように見える。
黄昏時はそんな残酷さの雰囲気が漂い、恐れと不安で世界を包む。
 
この物語で複数化するのは世界ではなく、人格である。人は鬼の血を浴びると鬼になる。
禰󠄀豆子は半ば鬼になった。彼女はジキルとハイドのように複数なった自分に涙する。

『鬼滅の刃』TVアニメ版第1話「残酷」より

『鬼滅の刃』の時代設定は大正時代だという。

柳田國男が『山の人生』(1916)の資料を集めて各地を調査していた時期と少し重なるのが面白い。
(この物語のモチーフに『山の人生』が参照されているという説もあるという。)
 

 
柳田の「かはたれ時」を読んでから、「山に埋もれたる人生あること」を読むと、想像が自然に膨らんでしまう場面がある。
それは、後者の五十くらいの男が目を覚ましたとき、「小屋の口一っぱいに夕日がさしていた」というシーンだ。
 
確かに、男は昼と夜の境界がぼんやりしてくる黄昏時に包まれていた。
彼は「かわたれ時」にいた。
 
そこで彼自身が、自分の中に他の自分が現れるのを許してしまったとしたら......
彼自身が複数となり、闇に包まれつつある黄昏時に吸い込まれるように「鬼」と化してしまったなら......
 
その後の残酷な所業を思うと、そんな想像が湧き出してくる。
 
そんなことを思いながらこのエッセイの末尾に書かれた「今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持(ながもち)の底で蝕み朽ちつつあるのであろう」という一節を読む。
 
すると、この実話がどこか遠く昔の出来事に思えなくなり、むしろ自らの中に沈み込んで漂っている何かに触れられたように感じられる。
 
引き算思考を育むためにマインドフルネスを毎日行うと、脳内のデフォルト・モード・ネットワークと呼ばれる、いわゆる「雑念」が瞑想の最初のうちは頭の中をぐるぐると回ることが多い。
 
もしそれが束になって形を成して、こちらに迫ってくるとしたら......
 
「あの偉大なる人間苦」は「長持の底で蝕み朽ちつつある」のではなく、意識の深層に降りていくと出会う自らの分身(ユングなら「影」と呼ぶような)として、自己の中で今も「朽ち」ずに浮遊しているように思える。
 
それは「鬼」のようなものなのかもしれない。(黄昏時のマインドフルネスはやめることにした。)
 

 
語り得ぬものについては沈黙しなくてはならない、のかもしれない。
が、沈黙の方が饒舌すぎる、と感じる「時」もある。
 
故郷が地震と津波に襲われ、何人かの係累を失い、実家も半壊指定になった3.11の後、幼い時分に住んだ港町に行って、当時の状況を地元の人たちに聞き書きしたことがあった。
 
まだ道路が所々分断され、鉄道が復旧していない中で、バスと電車を乗り継いで変わり果てた港町にたどり着いた。
 
自分が通った小学校の川向こうに別の小学校が河口近くにあった。そこは津波に呑み込まれた。昔、そこによく遊びに行ったことを思い出したので、ふとその方向に顔を向けて「近くまで行けたらいいんだけど」と聞いてみた。
 
すると、「夜になると子供たちが校庭で遊ぶ声がするから、行かない方がいい」と止められた。
 
夕闇が迫っていたことは覚えている。
 
今、柳田國男を読み返しながら当時の自分の無謀さを思う。
 

そうしてわれわれがこわいという感じを忘れたがために、かえって黄昏の危険は数しげくなっているのである。

(「かはたれ時」前掲書p.38)

我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遥かに物深い。また我々をして考えしめる。

(「山に埋もれたる人生あること」前掲書p.95)


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