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すぱげっち。|エッセイ



わたしの生活を躊躇なく黒にぬり潰す男はいないものか。

一生ものの男だ、と冴え冴えした確信で胸がカラッポになるような男は。じぶんを滅してもいい、と鋭利な得心を突きつける男は。あんな男はやめておけ、と周囲がわめいてもそれを無意味にねじ切り盲信させる男は。ただ、わたしひとりで静寂に熱狂できる男は。

いない。いないのだ。

ブルゾンちえみが地球上の男は「35億」とつぶやいていたのに35億分の1がいない。おかしなことだ。

ナンシーにはシドが、コートニーラヴにはカートコバーンが、伊藤野枝には大杉栄が、オノヨウコにはジョンレノンが、荒木陽子にはアラーキーがいたはずだ。

出逢ったとたん互いに万有引力でびたんとくっついて、ひとたび離れようものなら宇宙へ放り出されるような存在がどこかにいるのだ。必ず。なのに、なのに。

35億分の1が見つからないのならテキトーにそこいらにいる男にしておけ、と言うひとがいるけど、その言葉に対してわたしの中で江戸っ子に火が点く。

ってやんでー!べらぼーめ!こちとらナめてもらっちゃーこまるよ。そんな宵越しの銭が残ったみてーな男なんざいらねーや。人肌の湯をかぶるくれーなら、冷てー真冬の川へ飛びこまーっ!

ってなもんで。わたしは江戸っ子ではないのに江戸っ子にしてしまうほど肥やしにならぬアドバイスはいらないのだ。なにもわかっちゃいない。だからわたしはもう何年もひとりだ。

ひとりは心地いい。なにしても誰に迷惑をかけることもない。好きなときに寝て好きなときに起きて、手に余るほどの自由が漠然とある。

わたしはひとりが性に合ってはいる。しかし、なんだか味気ない。なんなのだろう、この虚無は。味のないポテトチップスを食べているような感覚は。臼歯にへばりつくポテトチップスを舌で剥がすような虚しさは。

くちびるを尖らせながら見る窓の外は、田園風景と盛り上がる山とすこし離れたところにある海と朝の5時半からごうごうと唸るコンバンインと叢に停まる軽トラだけだ。

灼熱を遮断するエアコンの下で見る灼熱は、生ぬるいスンドゥブを食べているようで、おもわずカーテンを閉めた。

数分後に正午を知らせる鐘が小さな町に行き渡ると空腹であることに気がついた。そして、灼熱の台所をおもい、ため息が漏れた。

わたしの棲んでいる家は自然と調和している。いい意味でもわるい意味でも。冬には寒くて夏には暑い、とても自然の摂理に従順な家だ。最近の家のように冬には暖かく夏には涼しい造りの家とは真逆を生きている、THIS IS JAPANな家なのだ。

だから、この家の台所で火を司る者になると「台所=熱中症もしくは死ぬ」になりかねない。台所にエアコンはあるけど、うちの換気扇は部屋が冷えることを拒むから点けても意味がない。

わたしはさきほど見た窓越しの灼熱へ赴く勇気はさらさらないので冷蔵庫の上の段からあるものを思い返した。納豆、豆腐、葱──とさらうように記憶したものが頭へ流れると、冷凍庫でびたんと止まった。

そういえば、冷凍のナポリタンがあった。

わたしは食べることに心血している。その熱はハンパではない。泰然自若としてぼうぼうと燃えている。だから、惰性でなんとなく食べるなんて暴君ディオニスすぎる。毎食がさまざまないのちを刈り取ったうえに成り立つのだから、へらへらなよなよと食べるなんてさすがのメロスも激怒する。

わたしは食べる瞬間に切実に感謝し、注視し、おもう存分に味わいたい。そういつもおもっている。

みんなでわいわいと囲む食卓もいいけれど、ひとりで黙々と食べる瞬間もいとおしい。

寿司、天ぷら、懐石、フレンチ、イタリアン、中華、カレー、ラーメン、ハンバーガー、おむすび、インスタント焼きそば、そして、冷凍のナポリタン。

どれも平等に同等においしい料理もあったし、とことんまずい料理もあったし、凪いだ味のするたんぱくな料理もあった。

そのどれもこれも切り離すことのできない「食べる」という行為だ。それは、わたしの血肉となり体力や知力へと浸透するように脈々といのちに代わる。有形から無形へと、目には見えねども必ず存在している。

わたしは決してグルメでないけど妥協はしない。そのときのじぶんに素直に食べたいものを食べる、このうえない極上の贅沢だ。

わたしはじぶんに「冷凍ナポリタン、食べる?」と問うた。すぐさま腹の底からぐぐうと返事が来たから、ぬめんと暑い台所へすぐさま行き、冷凍庫を開けてものの0.8秒で取り出し、裏面に表記してある加熱時間を確認し、封を開け、電子レンジへ入れ、時間をセットし、スタートボタンを押した。ぶぶーん、とオレンジ色のスポットライトを浴びながらゆっくり回る冷凍のナポリタンを確認したら、エアコンが冷やした居間へ飛ぶように戻りiPhoneを突く。

そして、電子レンジから加熱完了のメロディーが流れると飛んで火にいる夏の虫のように台所へ飛び込み、熱々のナポリタンの容器を指でつまみながらおぼんへ載せ、フォークも載せ、居間へ戻った。

ナポリタンを容器ごと覆うたるんだ透明フィルムをはがすと、酸っぱいトマトケチャップの匂いがした。それはぐぐんと鼻に入りわたしの胃をまた鳴らす。

わたしは「いただきます。」と合掌して、フォーク持ってナポリタンをくるくると巻きそれを口へ入れた。

口腔内に充ちるトマト、トマト、トマト。生のトマトよりも甘くて酸味は少ない。とてもマイルド。太麺はもっちりとした歯応えでアルデンテにはほど遠い。しかし、これはパスタではない。ナポリタンだ。太麺に絡まるソースははがれ落ちることはない。申し訳ないくらいのピーマンと玉ねぎもいっしょにくるくると巻きつけて食べる。

これぞ、これぞ、THIS IS JAPAN.日本が誇るナポリタン。

そういえば、むかし祖父母がパスタのことを「すぱげっち」と呼んでいた。

すぱげっち。その語感はたまらなくかわいい。それが持つ力は、余白が多い皿のうえにこじんまりと行儀よく載っている「わたし、ひとくちだけですが、それがなにか?」と、いちおう世間体で問うたが応えはいらない上品さがある食べ物ではない。「あたし?あたし、すぱげっちって言うの。」と、無垢な笑顔でうなずく親しみがある、すぱげっちには。

この冷凍のナポリタンを分類するとパスタというくくりではなくすぱげっちだろう。

わたしは黙々と食べた。スンと姿勢を正したまま、かんで、のんで、また口へ運び、味わった。

これには有名レストランや純喫茶で食べるナポリタンにはないチルさが繊細に地味に滋味に充ちていた。

脳みそが痺れていく。エネルギーがわたしの外側に立ちからだとしての感覚をかるがると越境していく。無限の拡がりを感じながらからだもこころも、平らかに和なり、となった。これ以上望むものはなにもない、と。そして、まだまだ生きたい、とシンプルに執着した。食べることは生きていくことなのだ。

わたしは完食したのち「ごちそうさま。」と合掌した。

部屋へ戻りカーテンを開けるとコンバンインの姿はなく、日に照った藁が見えた。田んぼは更地のように閑かだった。

すると、ぐうとこころが哭いた気がした。しかし、それはすぐさま網戸にビタンッと止まった蝉に打ち消された。ツクツクボーシが全身を震わせて哭いた。

わたしはふと、蝉は七日目で地上へ出たことを後悔するのだろうか、とその震えるからだに問うた。しかし、わたしの声は尊い哭き声にあっさりとかき消さた。そして、存分に哭いた蝉は来たときと同じようにビタンッと網戸を鳴らして飛んでいった。この名前のない夏を泳ぐように。




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