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『普通がいいという病』

日本を離れるときに、一部の同僚などから「無責任で自分勝手だ」「後先考えない無鉄砲な行動だ」などと白眼視されもしたのですが、パリではフランス人の友人に「立ち止まって自分の人生を見つめ直すことを決断したことは、とても素晴らしいことだ!」と逆に称賛され、こんなところにも日仏の人生観の違いを象徴的に感じたのでした。

「普通がいい」という病 おわりに

これは精神科医である著者が、かねてより念願だったパリへの音楽留学を決意したときのエピソードです。

安定した立場を離れての留学、しかも本業とは異なる分野での留学は、並大抵の決断ではなかったと思います。

日本人の同僚は著者の行動を「普通ではない」と考え否定的な反応をし、フランス人はむしろ歓迎すべき行動としてとらえる。

反応の仕方は、同じ国の人でも様々だとは思いますが、お国柄の違いをよくあらわしたエピソードなのかなと感じました。

同じ行動に対して、これほど反応に大きな違いが出る背景には、それぞれが生まれ育った環境の精神風土に根本があるようです。

そして、そこには普段われわれが深く意識せず使っている「言葉」が大きな影響を及ぼしていて、著者はそれを「言葉の手垢」と表現しています。

言葉の手垢というのは、言葉にくっついているある世俗的な価値観のことです。たとえば先ほどの「普通」という言葉でしたら、「普通はいいことだ」「普通は幸せなことだ」という価値観が背後にある。そして、そう思っている人の中では「普通」は「多数派」と密接に結びついているに違いない。

同 第2講

言葉の手垢、いわばレッテル貼りが、人の考えを縛り、ひいては行動を縛りつけることになる。

今でこそ見直されてきていると思いますが、昔は「35歳転職限界説」がまことしやかに流布されていました。そうした世俗的価値観のもとに生まれた人の中には、年齢を理由に転職をあきらめた人が少なからずいるはずです。

これはいわば、本当の自分の欲求や欲望を、世俗的な価値観に合わせて抑圧し、コントロールしているともいえるでしょう。

うつやパニック障害、強迫神経症や摂食障害などの精神疾患は、そうして抑圧され続けた本当の自分が悲鳴をあげ、生き方そのものを見直すよう知らせてくれているのだ、と著者はいいます。

抑圧したりコントロールしたりするのは、自分に嘘をつき続けている状態、ともいえるかもしれません。

「習慣」というものについてよく考えてみますと、これも二元論的理性の産物であることに気が付きます。「習慣」は、人間の行動をあるマニュアル通りにコントロールする仕掛けですが、これはともすると、人間の柔軟性・即興性を奪い、チェーン店の接客マニュアルのように表面だけ整えて、内的には不自然な状態を作ってしまう恐れがあるのです。

同 第4講

例えばうつの患者さんはよく昼夜逆転になるそうですが、それを無理に規則正しいリズムに矯正しようとするより、そのときの「自然な状態」である昼夜逆転のリズムに一度身を委ねてしまったほうが、本来の治癒力を発揮しやすいといいます。

また、風邪で食欲がないとき、つい無理してでも食べたほうが良いと考えがちですが、空腹状態は身体本来の免疫力を高める力があり、自然の動物も病気のときは食べず動かず、じっと回復を待つといいます。

このように、常識的に良しとされていることの中にも、実は嘘が紛れ込んでいる可能性がある。まずは一度それが本当に正しいのか、疑ってみることが大切なのかもしれません。

「私はワガママなんです」ということを、よくクライアントから聞くことがあります。そんな自分は非常に困った人間なんだと言っている。そこでこちらが、「ああ、『我が、まま』。いい言葉ですね」と言ってみることがあります。もうこれだけで、ワガママという言葉は揺さぶられてきます。また「わがままというのは、『自分が、あるがままである』という言葉のはずですけれど…」と言ってみたりすることもあります。

同 第7講

ワガママという言葉にも、言葉の手垢がべったりとこびりついていそうです。自分勝手、したい放題、周りの人をかえりみない等々。

でも、よくよく言葉をそのまま見てみれば、「我が、まま」。あるがままの自分。本来の自分。何だか素敵な言葉に見えてきます。

でも、自分よりも周囲に配慮することこそが成熟した大人のたしなみである。そんな日本の精神風土に、息苦しさや面倒くささを感じる人も、少なくないのではないでしょうか。

また、いわゆるワガママという言葉からは、例えば子供がおもちゃ売り場で「あれも欲しい、これも欲しい」と駄々をこねる姿がイメージされますが、これは本当のわがままではないと著者はいいます。

本当は、「お母さん、まっすぐこっちを向いて」「ちゃんと私のことを見て」ということをその子は望んでいるのであり、おもちゃを買ってもらうのはその代理満足に過ぎない。だから、いくらおもちゃを買ってもらったとしても、お母さんがちゃんと自分を見てくれているという心の飢えが満たされない限り、その子に真の満足は訪れないのです。

アルコールや買い物、食べものなどに依存してしまうことの背景にも、こうした本当の心の飢えが何なのかわからないまま、ひたすら代理満足で穴埋めしようとしている、そんなカラクリがあるようです。

「我が、まま」になれていない、とも言えそうです。

「愛」のために私たちに出来る第一歩は、逆説的ですが、まず自分をきちんと満たしてやることなのです。ところが面白いことに、人間は自分を満たしても、必ずいくらかは余るように出来ている。この余った物を使ったときには「愛」の行為になる。ここが大事なポイントだと思います。そういうわけで、バナナは五本であったのです。

同 第6講

著者自身の創作である「五本のバナナ」というお話。

五本のバナナを持っていて、本当は三本食べたいけれど、物乞いの人を可哀想に思い、自分は二本で我慢して三本あげる。

ところが物乞いの人はバナナが嫌いで、もらったバナナを投げ捨ててしまう。自分がせっかく我慢してあげたものを捨てられたら、誰でも腹が立ちますよね。

そこで、三本食べて自分がしっかり満足したあとに、余った二本をあげる。それを同じように捨てられたとしたら、どうでしょうか。やはり腹は立つかもしれませんが、自分が我慢してあげたときと比べると、そこまで腹は立たないように思います。

まずは自分自身をしっかりと満たしてあげること。そのうえで余ったものを他者へとお裾分けしていく。

自分自身を愛さずに他者へ向ける欲望、一見愛のように見えるそれは、すべて「偽善」だと著者はいいます。

人には親切にしましょう。人に迷惑をかけてはいけません。人の役に立つ人間になりましょう。このような道徳的な教えを幼い頃から刷り込まれていると、満たすべき順番をうっかり間違えてしまうのも、ある意味自然なことかもしれません。

まず最初に満たすべき相手である自分。

では、自分の本当の心の飢えを知るには、どうすればよいのでしょうか。

著者は、そのための手段の一つとして「心の吐き出しノート」をおすすめしています。

そこで私は、文字に書いて怒りを出すことを薦めています。つまり、「心の吐き出しノート」のようなものを一冊用意して、何かモヤモヤしたりイライラわだかまったりしている時には、必ずこのノートに書いてもらうのです。ただしこれは日記ではないので、毎日律儀に書く必要はありません。書きたい時には何ページ書いてもよいし、どんなに大きな字で殴り書きしてもよいし、絵やイラスト入りで描いてもよい。とにかくスッキリするまで書くことがコツです。

同 第5講

はじめのうちは、なかなか思うように書けない人も多いそうです。「こんなことを書いては駄目だ」という理性、いわば世俗的な価値観が邪魔をしてしまうのかもしれません。

でも、続けているうちに少しずつ書けるようになり、書くことで自分が軽くなれる実感が得られてくるようです。

怒りという強い感情をうまく成仏させるためのツールとして提案されていますが、いずれ自分との創造的対話をも可能にする、大切なものに成長していくといいます。

このとき大切なのが、「感情を差別しない」ということ。本著でとても印象的だったキーワードのひとつです。

例えば「怒り」という感情は、「良くないもの、コントロールすべきもの」として認識されることが多いと思いますが、怒りを「悪いもの」として差別してしまうと、そこに隠されている大切なメッセージを見逃すことになると著者はいいます。

クライアントがはじめて相談にやって来るときには、例外なく「駱駝に疲れてしまって…」とか、「獅子にちょっとは成ってみたけれど、やっぱり間違っていたんじゃないか」と思っているような状態なのです。「獅子には成ってみたけれど…」という人たちは、「攻撃的」「衝動的」「問題行動が頻発」といった評価をされてしまって周りから持て余されていることも少なくありません。私から見れば、それは駱駝にうんざりして「怒り」で自分を確保し始めた大事な時期なのです。それは一見、周囲と戦っているようですが、実は「自分になる」ための戦いを行っているのです。

同 第5講

駱駝(らくだ)とは、人間が成熟していくプロセスの一段階をあらわしたニーチェの有名な言葉ですが、いわゆる「一人前の社会人」がそれに該当します。

学生から社会人になるとき、それまでの生活から大きな変化を強いられます。右も左もわからない状態から、会社や社会のルールを少しずつ身につけ、「役に立たない」状態から「役に立つ」状態へ、他者にとって都合の良い存在へと適応していきます。

役に立てば人から感謝され、会社でも評価が上がり給料も増える。その頃になると仕事に忙殺され、自分が進んでいる道が本当に望んでいたものなのか、振り返る時間も余力もない。

何か大きな失敗をやらかして閑職へ追いやられる。これ以上の出世は見込めそうにない。無理がたたって病気になる。立ち止まることを余儀なくされてはじめて、本来の自分を探しはじめる。

しばらくの間は自分のふがいなさや情けなさなど、哀しみの感情が湧いてくると思いますが、時間が経つにつれ、何に対してかよくわからない「怒り」のような感情が湧いてくるというのは、何となくわかる気がします。

怒りという感情は強いものだからこそ、そこには大切なメッセージが隠されているのかもしれません。

私たちは幼い時から例外なく、現世に適応するために理性というツールを駆使して自己コントロールしたり、人間関係に配慮することが大切だと教わってきています。それは人間が社会的動物である以上やむを得ないことです。しかし、問題となるのは、これがあくまで「処世術に過ぎない」という但し書きが伝えられていない場合で、特に神経症的な人が教育やしつけを行うと、処世術を伝えているつもりで神経症性そのものをすり込む結果になってしまいます。

同 第10講

本当の自分というものが見えてきて、それまでとは異なる方向に舵を切る。

私なりにたとえてみると、それは自分が本当に着たい服が分かってきた状態、周りの皆が着ている無難で安全な既製品の服を脱ぎ捨てて、自分が本当に望む服を探したり、仕立てたりしようと決意する、そんな感じなのかなと思います。

ただ、探したり仕立てたりするまでには相応の時間がかかりますし、既製品の方が適している場や状況もあると思います。そこで、あくまで処世術という一つのツールとして、既製品もいつでも着られるように準備しておく。

著者は、そうした処世術を「適応のためのアダプター」「したたかさ」とも表現しています。

私の考える自己形成のイメージは、彫刻的なものです。ある塊があって、その中に、その人の最も中心的な部分、つまり核があって、そこは硬い。余分なところを削ぎ落とし、最終的には光り輝く核を磨き出す。宝石の原石を研磨していくようなイメージです。

同 第4講

自己形成というと、今の自分に足りないスキルや経験を増やしながら、理想の姿に近づいていくイメージが一般的かと思いますが、著者はそれを「塑像(そぞう)的自己形成」と表現し、本来の自己形成とは異なるものとしています。

塑像とは、粘土などの材料を塗り重ねてつくる像のことで、お寺にある仏像の一部も塑像です。

自分の外にあるものを集めて自己を形成するのではなく、はじめから内にあるものを、削りだしていく。何を削るのかというと、それまで身につけてきた、本来は処世術に過ぎないはずの社会性、世俗的な価値観なのかなと思います。

性格診断のようなものは昔から人気がありますし、最近だとMBTIが流行ったのは記憶に新しいところかなと思います。「自分を知りたい」という欲求は、多くの人が持つものなのかもしれません。

しかし、そうしたものの結果を参考にしたり、著者が紹介している「心の吐き出しノート」のようなものを通じたりして、少しずつ「本来の自分」が見えてきても、いわゆる常識的な考えや世俗的な価値観が邪魔をして、自分らしい考えや行動にふたをしてしまうことも、少なくないのかなと思います。

例えば、「お金になるかどうか」というのは、そうしたものの代表的なものではないでしょうか。

こうしてnoteに記事を投稿するというのも、今のところまったくお金にならない作業です(いつかなったら嬉しいですが)。

でも、好きな本を人にもぜひ伝えたいとか、発信することで今までより深く本を読めていると感じる充実感とか、書くという時間は何となくだけど自分らしい時間だな、大事にしたいな、とか。

記事を読んでくれた方が新たなヒントを得て、少しでも仕事しやすくなったり、生活しやすくなったりしたら嬉しいな、とか。

お金という尺度だけでは測れない良いものが色々あります。

山を登ってみたり踊ってみたり自転車で走ってみたり。絵を描いてみたり歌を歌ってみたり詩を書いてみたり。

お金にはならないけど何か楽しい、没頭して時間があっという間に過ぎていた、やり終えたあとにじんわりとした充実感がある。

おそらくそれは心や身体が喜んでいるに違いない。そう思います。

「自分らしい時間」の内容は、人によって千差万別です。読書の人もあれば、音楽を聴く人もある。身体を動かすことや、日記をつけることかもしれない。いずれにせよ、その人らしい充実感がわずかの時間でも味わえると、不思議と眠気が自然に訪れるものなのです。

同 第9講

著者は、日々の眠りをひとつの「死」ととらえ、不眠という症状は「死ぬに死ねない」状態、「今日という一日を生きたという手応えがない」という未練が引き起こすものだと言います。

「リベンジ夜更かし」という言葉がありますが、夜遅くまで働いて疲れているはずなのに、ゲームや動画、テレビなどにダラダラと時間を費やしてしまい、寝不足のまま翌日を迎えてしまった…そんな経験がある人も、少なくないのではないでしょうか。

それはおそらく、無意識のうちに、自分らしく生きられなかった今日という日を、必死で取り戻そうとしているのかもしれません。でも、その時間すらも、自分らしいものでなければ、「生きた!」という手応えが得られず、結局安らかな眠りは訪れない。

何が自分らしい時間なのか、見つけるのは簡単ではないかもしれませんが、役に立つかどうかとか、損か得かとか考えるのはいったんやめにして、そのときに心と身体が喜んでいるかどうか、じっくり聞き耳を立てながら、探していけるとよさそうですね。

本著では最後に、人間の変化・成熟過程を10個の絵であらわした「十牛図」が紹介されています。

十牛図がつくられたのは中国・北宋の時代といいますから、ざっと1000年ほど前。

これだけ長い間伝えられてきているということは、社会環境がどれだけ変化しても、人間の本質は大きくは変わらないということなのかもしれません。

自分は今どの辺りかな?第三、第四図辺り?
第六図まで行けるかな?
第七図から先はまだ想像もつかないけど、いつかそれを味わってみたいな…。

十牛図の存在は何となくは知っていましたが、歳を重ねた今改めて見ると、とても味わい深く感じられました。

本著を読んで、これまでうっすらと感じてきた違和感や生きづらさは、きっと自分の心や身体の声を無視してきた代償で、「今のままで大丈夫?」と、心や身体が教えてくれているのかもしれない、そう思いました。

ご興味がある方は、ぜひ手にとって読んでみてくださいね。

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