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【書評】『タタール人の砂漠』を読む。虚しく流れていく人生は、あなた自身の物語だ。
ロッシーです。
『タタール人の砂漠』(ブッツァーティ作)という本を読みました。
この本を読もうと思ったきっかけは、以下のNanaoさんの記事を読んだからです。きっかけを下さりありがとうございます。
昨日読み終わったのですが、ここ最近読んだ本で、一番面白かったです。
ただ、その面白さは、アクション映画的な面白さでは全くありません。
物語では、特に特筆すべき出来事は起こりません。主人公である将校のドローゴによる、辺境の砦での単調な生活が描かれているだけです。
にもかかわらず、とても面白いんです。
それはなぜなのか?
作者の筆力によるところが大きいのは間違いありませんが、私が思うに、読者がこの小説の主人公に自分自身を投影してしまうからではないかと思うのです。
私自身も読んでいて
「これは自分自身の話ではないだろうか」
と思わざるを得ませんでした。
もちろん、私は辺境の砦で勤務しているわけではありません。しかし、抽象的な意味において、私と主人公のドローゴと一体何が違うのでしょう?
毎日決まった単調な生活をしているのは同じです。
もちろんそれなりに変化はありますが、その根底となっているものが大きく変わることはありません。
そして、それを変えたいとも思っていません。もしかしたら、変えたいと思っていたのかもしれませんが、もはや積極的に変えようという意思は乏しいです。
そのようにして毎日毎日が過ぎていきます。
そのように慣習という鎖に繋がれているのですが、同時に、繋がれていることに安心感を抱いてもいるわけです。
それは、ゲームにおけるモブキャラのような存在なのかもしれません。
たとえそうだとしても、
「生きている、それだけでいいんだ。」
と心底から思えれば迷いはないでしょう。
しかし、そのように完全に思い込むこともできません。かといって、何か大きなことをやり遂げようと具体的な行動に移すわけでもありません。そんな中途半端な状態です。
でも、それでもやはり人生に対して、何かしらの幻想や期待は持っているのです。
それは、主人公のドローゴが、「伝説のタタール人の襲来」という幻想を抱いているのと同じ構造です。
しかし、物語においては、ドローゴの幻想はむなしく消え去り、最後には死を待つだけとなります。
そこに、人生の残酷さ、虚しさが読者に真に迫ってくるのです。
私も読んでいて、終盤では正直ある種の怖さを感じました。
「これが人生なのだとしたら、お前はどうする?」
と。
そういう意味では、ある意味とても怖い小説なのだと思います。
他人事として読むことが難しいからです。
結局のところ、誰しもがドローゴなのではないでしょうか?
「彼と同じような人生にならなくて良かった」と他人事にできるのでしょうか?
人生とは何なのかについて、これほどまでに自分事として考えさせる小説はなかなか少ないと思います。
年を重ねるごとに、この小説は真に身に迫ってくるのではないでしょうか。
文学の素晴らしさ、そして怖さを味わえる小説です。私はまたいつか必ず読み返すでしょう。
ぜひ、興味をもった方は読んでみてください。本当におススメです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
Thank you for reading!