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とらわれないことにとらわれないことにとらわれない…Da Capo

ロッシーです。

何事にもとらわれないで生きていければいいのですが、なかなかそれは難しいですね。

「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」 (夏目漱石著『草枕』から引用)

何かを意識すると、意識しようという作用に対する反作用が発生します。

「とらわれまい」と思っても、とらわれまいと思うこと自体にとらわれてしまう自分に気がつき、「いや、これではいけない」と否定しようとすると、否定しようととらわれている自分に気が付き、「いや、否定しようととらわれてはいけない」と思うと、さらにまた「いや、否定しようととらわれてはいけないと思い込むことにとらわれてはいけない」と、エンドレスに続いてしまいます。

で結局、「ああ、めんどくさい。腹減った。」となって食ったり寝たりするのです。

ようするに、とらわれないようにすること自体に無理があるのかもしれません。

ということは、意図的でなく、自然に空気を吸うようにとらわれない自分で「在る」ことができればいいのでしょう。

でもどうしたらそれを実現できるのでしょうか。

多分、お釈迦様がいったように、自分を観察することがポイントなのだと思います。

「とらわれないようにしよう」と思っている自分を俯瞰して観察する別の自分がいて、「そうかそうか、お前はとらわれないようにしようと思っているんだな。」と「ただ見る」ことに徹するのです。

つまり、「とらわれてはいけない」とか「とらわれていいのだ」とか、否定も肯定もせず、ただその心のありようを観察し続けるのです。

否定や肯定をすることは、それに対する反作用を生むわけですから、否定も肯定もせずにただ見つめるだけであれば、反作用も発生しなくなります。

否定も肯定などの判断をせず、ひたすら自分を観察し続ける。

そういう状態をつづけていると、だんだん観察している自分が本当の自分であり、観察されている自分というのが、他人に思えるような面白い感覚を覚えるようになります。

観察される自分と、観察する自分という二つの存在に分かれると、前者の自分がとらわれていてもいなくても、後者の自分にとってはどうでもよくなる感じになります。テレビ画面に映った自分を見ているような感じですね。

それがとらわれていない状態なのかもしれませんが、どうなんでしょうね。

よく分からない文章になりましたが、まあ分かりやすい文章を書くことにとらわれる必要もないような気もします。

「あ~なんか適用な文章を書いてるな~。」ともう一人の自分が、この記事を書いている自分を観察しているわけです。

ぜひ皆さんも自分を観察してみてください。

Thank you for reading !

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