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ワンショットサーベイから参与観察まで〜『調査する人生』

◆岸政彦著『調査する人生』
出版社:岩波書店
発売時期:2024年11月

社会学者の岸政彦が社会学・教育学の研究者六人と対談した記録です。相手は、打越正行、齋藤直子、丸山里美、石岡丈昇、上間陽子、朴沙羅。共通するのはいずれも質的調査を行う研究者であることです。

打越は沖縄の暴走族のパシリになって彼らの調査を行いました。いわゆる参与観察です。そのような過酷な調査を通じて何を書こうとしたのでしょうか。

 暴力を丁寧に書くことに、こだわっています。例えば、虐待家庭に生まれて成長し、自分が親になったら今度は子どもに暴力をふるうようになりました、みたいな話は書き方が粗いんですよ。確かに、暴力を繰り返してしまうかもしれないけれど、その子どもなりの暴力の意味があると思うんです。(p43)

「他者の行為の説明の精度と質が悪いと、別世界のビックリ話で終わってしまいます」と打越は著作でも記しています。精度と質が高ければ「そこに大きな歴史とか社会構造とかが必ず入り込みます」。それこそが打越が目指した社会学なのでしょう。2024年に他界したのはじつに口惜しいことであったとあらためて思います。

岸の実生活上のパートナーである齋藤は部落差別問題について長らく調査を行っています。部落の結婚差別をめぐるやりとりから、部落差別の本質は何か、ひいてはイエとは何かという問題にまでつながっていくのです。

差別されてきた人たちだけに、彼らを擁護するあまり必要以上に彼らの生活を賛美する言説もこれまでみられました。しかし斎藤はそのことにも違和感を表明しています。

「部落の豊かな生活」を言いすぎると、部落にロマンを感じるところにつながります。たしかに、差別があったゆえの部落産業や、助け合いの文化がある。でもそれに対して「近代社会が失ったものをここはまだ持っている」みたいなことを言うのも、違和感ありますよね。(p91)

それを受けた岸の言葉にも私は共感します。「ぼくたちは『極端な議論』をしたくないんだと思います」。

丸山は女性ホームレスの丹念な生活史の聞き取りなどを行っています。私たち一般読者は、ホームレスの問題ときけば、それはできるだけはやく解消すべき課題と考えます。けれども丸山は必ずしもそのような問題意識を前面に打ち出すわけではありません。
「私はそもそも社会問題を解決したいという発想は薄いんですよね。それよりもうちょっと現実を知りたいとか、……(中略)……女性の先輩としての生き方を聞きたいという興味の方が先にありました」と率直に述べています。

 簡単に理解できない、矛盾した語りとかに出会った時に、人間の深みを感じますよね。だからこそ、そこをもうちょっと掘り下げて考えたい気持ちが生まれるのだと思います。(p125)

誤解なきよう付記すれば、丸山自身は研究だけでなく、女性野宿者の支援団体をつくったりイベントを打ったり政策提言するなど多彩な活動を行っています。

石岡はフィリピンのボクサーに話を聞くためにみずからもボクサーになりました。ボクサーと相部屋で共同生活をしながら、同じご飯を食べて、同じ練習をして、一緒に外出して遊ぶという参与観察の成果は著作『ローカルボクサーと貧困世界』に結実しています。「ちょっと行ってすぐ話を聞いて帰るような社会学にありがちな調査はやりたくなかった」といいますが、誰にでも出来る調査方法ではないでしょう。

「社会学は自由な個人ではなく、制約だらけの個人をみます。でも制約を受けているだけでなく、受けながら自分の人生を作り直そうとしている」──そういう人びとの「宿命」を記録したという石岡の単著を読んでみたいと感じた次第です。

上間は沖縄の夜の街ではたらく女性を描いた『裸足で逃げる』で大きな話題を呼んだ教育学者。宮台真司が援助交際について書いていた頃、上間も同じような調査をしていたらしいのですが、結局何も書かなかったといいます。当時は「強いコギャル」の話が流行していたけれど、上間が見た実態は違っていたから。

 書けない。扱えないと思っていました。性的自己決定があって、主体的に生きていて、パンツを売っても傷つかない。そんな「強いコギャル」の話が私にとっては救いに見えたから、そういうことが書きたいと思ったのに。でも実際は何も変わっていない。なのでそこは書かないことに決めました。当時の言論の磁場の中で、単にどっちかにいっちゃう、消費されるだけだという思いもあって。(p207)

その後、沖縄での調査を始めましたが、そこでの調査研究は支援活動との境界があってなきがごとしの苛烈なものだったらしい。調査のあとに何度か嘔吐したこともあるといいます。岸は上間が「風景」という言葉をよく使うことを指摘したあとに述べています。

 上間さんは語り手が見ているものが見えているから「風景」って言うんだと思います。だからこそ自分の身体も傷ついてしまう。(p214)

朴は在日コリアン三世で、現在はヘルシンキ大学の講師を務めています。日本の敗戦直後に日本と朝鮮の間を往復した人びとや、従軍慰安婦問題に関わってきた人びとへの聞き取りといった生活史調査を続けてきました。

対談後に聴衆から、生活史調査という社会学的方法とノンフィクション作品を書くというジャーナリズムの違いを問われて、朴が「論文を書くのがゴールでなければ、気にする必要はないんじゃないでしょうか」と答えているのが興味深い。

あらためて振り返っておくと、本書において面白いのは登場する研究者の誰もが対象に対して濃密なアプローチをしているのに対して、岸はワンショットサーベイを旨としている点です。その点では好対照な対論が並んでいるのですが、本書では全体をとおして岸の発言が多く、そこから相手の言葉をうまく引き出しているともいえます。結果、それぞれの「調査する人生」が浮かび上がってきます。

岸の言葉で印象的なのは「他者の合理性」を繰り返し力説している点です。戦争中の集団自決で生き残った男性が戦後、軍の仕事で生き延び、米軍基地容認派になっている例を引いて「他者の合理性」を説いているのです。「一見すると非合理的な行為も、じっくり話を聞くと、そのひとなりの理由がわかってきたりする」のだと。

蛇足ながら岸の発言で一つ気になった点を記しておきます。石岡との対論で岸は名指しこそしていませんが、斎藤幸平の脱成長コミュニズム論を批判しています。

 ……インテリの大学の先生から「脱成長」「資本主義を乗り越えろ」って言われると、「それはそうだけど……その前に飯食うのが大事でしょう」みたいな気持ちになる。……(中略)……むしろ、もっと楽に飯を食える社会にしたいよね。だから経済成長やっぱり大事なんですよ(笑)。(p190)

いやいや。誰もが「もっと楽に飯を食える社会」にするためには弱肉強食的な資本主義よりもコミュニズムの方がいいでしょうと斎藤は言っているのですが。少なからぬ人が誤解しているようですが、脱成長とはけっして貧乏の勧めではありません。岸は本当に「インテリの大学の先生」の著作を読んだのでしょうか。その点だけ残念に思いました。

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