苦い現実を直視して考える〜『「戦後80年」はあるのか──「本と新聞の大学」講義録』
◆一色清、姜尚中、内田樹、東浩紀、木村草太、山室信一、上野千鶴子、河村小百合著『「戦後80年」はあるのか──「本と新聞の大学」講義録』
出版社:集英社
発売時期:2016年8月
朝日新聞社と集英社による連続講座シリーズ「本と新聞の大学」第4期の書籍化。現代思想、憲法学、社会学、財政金融論の立場から、戦後70年の今が抱える問題と未来への展望を考えるという趣旨です。
内田の〈比較敗戦論〉は、白井聡の『永続敗戦論』を下敷きにして他の「敗戦国」の戦後のありようを問いかけたもの。その問題設定は一考に値すると思います。後半ではそこから話を展開して、米国のベトナム戦争後のあり方(=カウンターカルチャー)などに言及しながら、米国の強さを「文化的復元力」に求めているのも仮説としてはおもしろい。
〈本と新聞と大学は生き残れるか〉と題する東の講義は、大学の人文系学部の危機は必ずしも人文知の危機を意味しないという命題を前提にしていて、凡百の人文知必要論とは一線を画します。1990年代以降、現代思想や批評が政治化・運動化したことを指摘したうえで、それだけではなく、軽薄な要素を含んだ多様な形で知的好奇心を養うことの重要性を述べているのは、たしかに人文学の核心をついているのではないでしょうか。このような認識は千葉雅也にも通じるものがあると思います。
〈集団的自衛権問題とは何だったのか〉という問いに応える木村草太の話はこれまで発表してきた見解を中心にまとめられていて、その意味では新味はないものの、安保法制賛成と引き換えに「付帯決議」を引き出した一部野党の動きを一定程度評価しているのが注目されます。良くも悪しくも法学者らしい態度といえるのかもしれません。
〈戦後が戦前に転じるとき〉を考察する山室信一の論考は、内田と同じく歴史に学ぼうとするスタンスをとりますが、タイムスパンは内田よりも長い。すなわち日本史上における四つの戦争(白村江の戦い、蒙古襲来、文禄・慶長の役、日清・日露・第一次大戦・第二次大戦)とその戦後を視界に入れます。そのうえで太平洋戦争前後の文人たちの飛躍ぶりを振り返り、「戦前」は「忘れたふりをするころにやってくる」と警鐘を鳴らしています。
上野千鶴子の〈戦後日本の下半身〉をめぐる講義は、豊富なエビデンスを参照しながら近代家族の問題を考えています。少子化対策をはじめとする日本の家族政策がいかに男性優位の古臭い社会観に裏打ちされているかを指摘する、その舌鋒は切れ味鋭い。経済成長への夢から覚めない人たちの見当外れの政策を支えているのは国民自身であるというまとめは、最近、さらに先鋭化させた発言を新聞紙上で披瀝して批判を浴びましたが、一つの見識を示すものには違いないと思います。
〈この国の財政・経済のこれから〉を考える河村小百合は進行中のリスキーな政策運営を批判しつつ、今後想定される財政破綻の具体的状況を描いて財政再建の必要性を力説しています。
この種の本はまとまりを欠くうえに大味な内容のものが多いというのがこれまでの印象だったけれど、本書における個々の講義はいずれも簡にして要を得たもの。タイトルに即していうならば「人の命を直接奪う戦争がなくても、経済的危機が新しい『戦前』と『戦後』をつくり出すかもしれない」という一色清のあとがきの一節もまた本書の問題意識の射程の広さを示唆するものでしょう。意外といったら失礼かもしれませんが、たいへん勉強になる本です。