インクルーシブという言葉だけが広まっていく
インクルーシブ教育とか、政治もそうだけど
ことばの難しさや、荷の重いイメージは人を遠ざける。大人に余裕がないと特に。今は経済的な制裁も大きい。
明らかに社会の雰囲気が悪いし、そんな中で語られる目指す理想が、高すぎるのかもしれない。
現状の理解からはじめたり、遊びや癒しではない話し合いからやらないと、
隣人さえよく知らない世の中で何かを熱く引っ張ろうとしても意味がないような気がする。
子どもにかけるエネルギーをとっておきたい層は、
子どもを守る必要があり、ぶっちゃけ役割からは遠い。
だからこその、誰にでも達成しやすい目標って必要なのだけど、複雑すぎて小さな一歩が出しにくい。
スモールステップは、それこそ特別支援の真髄だと個人的には思ってるし、多様な価値観の人がたくさんいるからこそ、横に繋がるためにも大切なポイントだと感じている。
そして配慮を受ける立場にいると、特別支援に必要なのって、「その人から配慮を受けたいかどうか?」が先に来る。
結局はどんな立場の先生や大人も「繋がろうとする意志を感じるか、余裕をつくりだせるか」だと感じてしまう。
制度より人と大切に繋がるっていう部分に長けている人に結局は救われている。(複雑な背景がある場合の最低限の知恵はもちろんほしいけど。でも人との出会いにより、必要な制度や診断を受けなくてよくなる場合もある)
また、インクルーシブっていうならばまず
大人の「インクルーシブ社会」から良くしていかないと意味がない。
そんなことを考える必要がなかった時代も、日本はあったはずなのだけど。。
制度なら有能な人に偏らない制度を作るとか、予算組みとか、グラグラしない環境整備はすぐ必要。ただしそれを作り出すのは本質的に問う力においては有能でないと難しいとは思う。
他人や自分に対して余裕を持ち、面倒がらずに泥臭さを共有しながら、支え合いながら向き合う。。そこが出来ないから、更にしんどくなるのでは?と感じる。
今の大人が作ってきた社会、受けてきた教育は、支え合いが苦手になる構造があるのかなぁ。
迷惑をかけない。距離を保つ。大切だけど、いざという時にそれを発揮しすぎて逆効果にならないか。
すっかり刷り込まれて、無意識すぎて気づかない場合もある。
自分も改めて自覚し、意識化して考えていきたい。