苺のコンフィチュール
僕がその人に初めて会った記憶があるのは小学校に上がった頃だ。
母が言うにはそれよりも前に会っていると言うが、僕は幼すぎて分からない。
スラリとしていて、制服をきちんと着て、格好いいなぁと思った。
コツコツと革靴の音が大人の男って感じで。
母と二人で居るところを見かけたのは、姉に無理やり買い物に付き合わされた時。
スーツ姿でカフェの窓側に並んで座って、ぼんやりと外を眺めながら穏やかに会話していた。
そして、ゆっくりと立ち上がって、エスコートされて店を出ていった。
パンプスを履く背の高い母とその人は。
身長差があまりなくて。
すっとした背中同士が印象に残った。
もどかしい二人の後ろ姿に。
何となく。
味方をしたくなった。
「あれ?ママじゃなかった?」
姉がそう聞いたけど、
見ていなかったと言った。
もう一度見直すと、行き交う人の中で小さくなっていたのに、あの二人の背中はすぐにわかった。
そうして、景色に紛れていくと。
何だか切なくなった。
でも、その何だかを深く考えることはしないでおいた。
そのあと、しばらくした頃。
家でお気に入りの動画を見ていると。
外に人の気配がした。
母を呼ぶ声が聞こえて。
母の声が
もう、大丈夫です、と。
相手の声が聞こえる。
大丈夫じゃないでしょ。
無理したらだめだよ。
ただ事じゃないと、玄関を開けた。
顔面蒼白の母があの人に支えられて立っていた。
「どうしたの?」
大丈夫だと言う母の言葉に被せて。
「仕事中に具合が悪くなったから、送ってきたけど、やっぱり病院へ行ったほうがいい。
お母さんは大丈夫って聞かないから。
悪いけど、一緒に来てくれる?」
はい、と答えて支度をした。
何か大きな病気だったりしたらどうしよう
と、とてつもない不安に飲み込まれそうになって。
今から診てもらうから、気にしても仕方ないやと思い直した。
病院へ着くと、あの人が車椅子があるから持ってきてと。
さっと慣れた動きで、
嫌がる母を抱き抱えて車椅子に乗せると。
車を置いてくる間に、受付で具合が悪いから、休ませてもらうように伝えて。
出来るよね。
と、
強く言われた。
母を看護師に頼んで、ベッドで寝かせてもらった。
やっぱり具合が悪いみたいで、静かに目をつぶっている。
しばらくして、男の医者が来て。
息子?
お母さんを診察するから、しばらく待合室で待っててくれるかな。
ガサツだけど、少し気遣うように言われたそのメガネの奥の黒目が鋭かった。
あの人と、待合室で並んで待った。
少し手が震えるのを
ぐっとこらえて、ポケットに手を突っ込んだ。
医者にはあっさりと
過労に依る貧血と聞かされた。
処置室で点滴を受ける母に対して、一晩様子見に入院しなさいと言う医者。
あの鋭い黒目とボサボサの髪が印象的だ。
あなた、働き過ぎだよ。
子供たちだっているんだからさ、自分のことも労りなさい。
それでも、帰ると言って聞かない母を僕が叱って、姉に連絡をした。
父が居なくなってから、少し無茶な働き方をする母にお仕置きだ。
送るよ。乗って。
と、その人は当然の様に僕を車に乗せる。
僕の好きな車はスーパーカーのランボルギーニだけど。
その人の黒のSUVはカッコ良かった。
スッキリとしたスタイリッシュな車内に似合わない、ジャムパンがひとつ、バックシートに転がってて。
ドリンクホルダーにはペットボトルの紅茶が開けられずに置かれていたのを今になって気付いた。
「あの、母のこと、ありがとうございました。」
お礼を言うと。
「こちらこそ。一緒に来てくれてありがとう。大変だったね。」
何故か僕も労いの言葉をかけられて。
母が、この人をとても慕っている気がした。
母が帰ると言って聞かなかった理由は。
残酷かも知れないから言わないでおいた。
そして、病院へ一緒に来てくれて嬉しかったのは、不安でいっぱいだった僕の方が何倍も上だ。
ジャムパン、好きなんですか。
えっ、
まぁ、好きとは言い切れないけど、時々食べるよ。
何でだか、少し耳が赤くなったその人を見ていると、
申し訳なくなって、変なこと聞いてすみませんと言った僕は。
いえ。
と一言返された。
この人は。
シャイだ。
あまりプライベートなおしゃべりは苦手そうだから。
理由を付けて喋ろう。
対大人の男、策を練っていると。
夕飯は。
と聞かれた。
何と、僕達の心配までして。
シャイなのに。
大丈夫です。
母が用意してあるので。
姉も僕も料理は得意なので、食いっぱぐれにはならないです。
ふふふ。
頼もしいね。
そう、やさしくて低い声が応えた。
何だか、胸がほっこりして、僕も照れ笑いをした。
家に着いてSUVを見送ると、姉が飛び出てきた。
ママは!
大丈夫。
一晩様子見に、泊まるだけだよ。
落ち着いてたから、心配ないよ。
真っ青な顔が、ホッとして。
瞬く間に赤くなってボロボロと涙をこぼした。
大丈夫だよ。
もう一度、そう言って。
会社の人が一緒に連れてってくれたから、心配ないよ。
明日、一緒に迎えに行こうよ。
姉に母へメールを入れてと頼んで、僕は夕飯の支度を始めた。
こんな非常事態には。
いつも通りの行動がいい。
考え込まず、淡々と生きるための行る動をする。
そうすると、ダメージを少なく翌朝を迎えることが出来る。
学校へ行けなくなった僕が体得した処世術とでも言おうか。
その方法でも、何だか寝付きが悪くて。
朝は少し寝坊した。
ぼんやりと。
昨日のことを反芻して、あの人は落ち着いていて。
行動が素早くて、僕達のことまで気にかけてくれる余裕があるなんて。
カッコ良かったなと、また思った。
姉が、目の腫れ方がハンパないとか言って、もたもたと準備が終わらないうちに。
玄関の鍵を開ける音がして。
ただいま、と母の声がした。
迎えに行くって言ったのにと、少し苛ついて出迎えると。
何故かとてつもなくホッとした。
ドタバタと。
姉が母に飛びついた。
ママ!
ふたりとも、ごめんね。
留守番ありがとう。
今日は家でゆっくりと休むわ、と。
また泣き出した姉を見ていると、僕は泣かないぞと誓って。
おかえり、と言った。
ありがとうね、と言う母の顔を見ると、ぐっと胸が苦しくなって。
ふいと。
部屋に入って、ベッドに潜り込んだ。
いつの間にかうとうとして、時計を見ると30分程経っていた。
姉は、安心して、1限目が必修科目だったと。慌てて学校へ行く準備をして出かけていった。
リビングで母がのんびりとハーブティーを飲みながら好物のサブレをかじっている。
めったに見れないその姿は、僕は好きだ。
ほんわかと、ゆるい感じが僕が小さい頃の母の感じで。
ねぇ。
あの、会社の人にお礼したらいいかな。
病院の帰りも送ってもらったんだよ。
そうだったのね。
ありがとう。
母が少し涙ぐんだ。
パン、好きかな。
焼こうかと思って。
喜ぶと思うわ。
あなたの焼いたパンは美味しいもの。
ぽろりと涙がこぼれて。
今から準備するから、明日渡してくれる?
うん、と子供みたいな返事をした母は僕を抱き締めた。
ちゃんと、休んでよ。
そう言うと、腕の力がもっと強くなった。
ああ。
早く大人になって、母を解放してあげたい。
心配なんてしなくていいよって。
パンを焼く手順を踏んで。
想いを込めた。
ありがとう
って。
僕だって男だからさ、多くは語りたくないけど。
パンの焼ける匂いが漂って。
母がとってもいい匂い。
おいしい匂いって、幸せな気持ちになるね。
そう
僕は。
嬉しくて。
あの人も幸せになって欲しいと思った。
母が先週の休みに、祖母の畑で摘んできた苺を使って作った、いちごジャムを入れたジャムパン。
何だか。
ナッツやチョコより、レーズンより。
あの人に
母が作ったジャムが似合った気がした。
プレーンタイプのロールパンと。
ジャム入りのパンを包んで。
メッセージカードに
母がお世話になりました。
ありがとうございました。
と、名前を書いた。
あの人がどんな顔して受け取るのか。
やっぱり少し照れるんだろうなと。
次の朝、出勤する母に託した。
どうか。
僕の思いが
あの人に伝わりますように。
その後、どのくらいかの期間を経て
その人の懐の深さと大人の男のカッコ良さに改めて触れる日が僕にやって来るのだ。