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デザインするひとのためのブック・リスト

前職では毎年、5月連休前に読書リストを配布していました。2019年度はこのようなかたちになりました。最初にリストをしめし、その後、簡単に解説を加えています。

デザインするひとのためのブック・リスト
‘Rage Against the How to 本’ の視点で

本屋へ出かける。すると、さまざまな必読書コーナーが設けられている。文学、ビジネス書、あるいは工学書——本を先人たちによる試行錯誤の記録だとすれば、こうして、それぞれの領域において必読書、ないしはKey Booksなるものが存在することは、至極当然である。では、デザインにおいて、それはなんだろうか?

書店やAmazonなどをみれば、デザインのコーナーにおいてある「必読書」とよばれる書物たちは悲しいかな、いわゆるHow to本の類がほとんどである。即戦力というには大げさなほど、ごくごく手短なオペレーションによる解決策を羅列したもの。あるいはデザイナーのポートフォリオともいうべき私的事例紹介の本——おおまかには、こうした二種類がデザイン書のコーナーを形成している。

もちろん、これらが全く役に立たないとは言い切れない。しかし、それをお菓子作りに例えるなら、いわばケーキのデコレーション・クリームを効率よく巻くコツ、という程度のことすぎず、ケーキのデコレーションという行為を俯瞰、あるいは体系的に解説したもの、それをふまえてのディティールの必然性、そしてそれらの基盤となるスポンジのこと……はては総体的なお菓子づくりの「そもそも」については、なにも触れていない。これらの著書をみるかぎり、それらは大概、一個人による経験談の断片をまとめたに過ぎず、ほとんどが、聞きかじりの知識でわかったつもりになっていたり、かってに筆者のあたまのなかで、つくりあげた出来事の開陳にすぎないから始末が悪い。

はやいはなし、デザインはそんなに簡単ではない。もちろん、こうしたHow to本的なことができていないことは、教育機関として自己反省すべきところかもしれない。しかし、それをおこなわない理由は十分にある。なにより、こうしたHow to本 / ポートフォリオ本で得られる知識・教養としてはあくまでもアプリケーションにすぎず、それを稼働できるOSが自身に経験的に形成されていなければ立ちゆかない。

残念なことに、そうした意味でデザイン書のコーナーには、本来的な意味での必読書・Key Booksはおいていない。では、存在しないか ? といえば、そうではない。デザインは元来、ひとの暮らし、そして歴史とともに形成されてきたインフラストラクチャである。「デザイン」と冠していなくとも、さまざまな書物をデザインの本として読むことができるし、そうすれば自分自身にとってのデザイン本をアーカイヴしてゆくことができる。そのプロセスのなか、それぞれのなかで、デザインをかんがえる・つくるひととしてのOSが芽生えるだろう。しかし、それは当然、時間も労力もかかる。特効薬的ではなく、体質改善、からだづくりであると認識すれば、その熟成時間は必然といえる。

ここでは、OSづくりのためのデザイン書——必読書・Key Booksを紹介する。これらのなかには、書店のデザイン書コーナーでは扱っていないものが大半である。当然、デザインのことを語っているものもすくない。ここで紹介する書物のおおくは、一読したかぎりでは内容を把握できないかもしれない。折に触れて繰り返し読むなかで、濾過されてゆく性格のものがおおい。しかし、これらからデザインを見出すことが、各人の豊かなOSづくりの第一歩となるだろう。


|First|即戦力となる6冊

■『パン屋の手紙——往復書簡でたどる設計依頼から建物完成まで』
中村好文 / 神 幸紀(筑摩書房 2013)

■『デザインのデザイン』
原 研哉(岩波書店 2003)

■『デザイン学——思索のコンステレーション』
向井周太郎(武蔵野美術大学出版局 2009)

■『デザインの小さな哲学』
Vilém Flusser / 瀧本雅志 訳(鹿島出版会 2009)

■『近代デザインの美学』
高安啓介(みすず書房 2015)

■『Grid Systems in Graphic Design』
Josef Muller-Brockmann ( Niggli 1981 )


|Second|「われわれはどこからきたのか」を知るための6冊

■『色彩論』
Johann Wolfgang Von Goethe / 木村直司 訳(ちくま学芸文庫 2001)

■『絵画論』
Leon Battista Alberti / 三輪福松 訳(中央公論美術出版 2011)

■『陰翳礼讃』
谷崎潤一郎(中公文庫 1933)

■『抽象の力——近代芸術の解析』
岡崎乾二郎 (亜紀書房 2018)

■『タイポグラフィの領域』
河野三男(朗文堂 1998)

■『エクリ叢書 I ——デザインの思想、その転回』
エクリ編集部 ( OVERKAST 2017 )


|Third|「われわれはどこへむかうのか」のヒントとなる3冊

■『中世の覚醒——アリストテレス再発見から知の革命へ』
Richard E. Rubenstein / 小沢千重子 訳(筑摩書房 2018)

■『美の法門』
柳 宗悦(岩波書店 1949)

■『新編 東洋的な見方』
鈴木大拙 / 上田閑照 編(岩波書店 1997)


|First|
即戦力となる6冊


『パン屋の手紙——往復書簡でたどる設計依頼から建物完成まで』
中村好文 / 神 幸紀(筑摩書房 2013)

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中村好文氏は住宅と家具を主軸とした建築家。大型の建築物は都市におけるモニュメンタルなオブジェクトであり、それは彫刻的行為である。現代における建築家のおもな潮流はこちら側にある。しかし住宅建築は、いわばすまいをデザインすることと同義。風土と、そこにおける人間としての身体感覚を研ぎ澄ましながら、最適なかたちを、その都度模索する。中村好文氏の仕事をみると、そうした感覚と経験値が群を抜いて研ぎ澄まされていることがわかる。EnvironmentalにたいするAmbientとしての環境形成。そのプロセスは、まさにエクスペリエンスのデザインでもあり、コミュニケーション・デザインの視点と共通するところはおおい。

この書籍はひとつの店舗、そして住宅ができるまでを追ったドキュメント。中村好文氏とクライアントであるパン職人 神幸紀氏による往復書簡、そして現地をふくめた各所でのやりとりで構成されている。デザインはいったい誰によってなされるのか?、デザイナー(この書物においては建築家)は、そこでなにをするのか?単線的な時間軸のなかでおこる、さまざまなできごとと、それが濾過されてゆくようすが、親しみやすいテキストと美しいドローイング、そして写真で追体験できる。


『デザインのデザイン』
原 研哉(岩波書店 2003)

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原研哉氏の代表的著作。日本においては近代にはいり、海外から輸入されたかのうようにみえるデザイン。しかし、それらは決して正確に翻訳された訳ではなく、商業美術と歪められ解釈・定着をした。それにとどまらない本来的なデザインの一端を、デザイナーの視点でまとめた一冊。2000年代におこる、ある種のデザイン・ブーム、そのテーゼでもあった「もの」から「こと」へのモード・チェンジを象徴している。商業美術的なデザインへの意識から元来的な「Design」への拡張、あるいは再認識するに親しみやすい内容である(いっぽう、モダニズム原理主義的ともいえる原研哉氏によるグラフィックスは方法論として、必ずしも汎用性のある解とはいえないことは理解してほしい。もちろんこれに限らず、デザイナーや造形者による著書は、ときにその思想と造形・意匠を分けて捉えたほうが、読者にとって有効な場合もおおいだろう。たとえば後述する柳宗悦による民藝なども。もちろん、著者・当事者のなかではつながっていることであるが、そこから異なる時代や文化にいきる立場にしてみれば、そればかりではない)


『デザイン学——思索のコンステレーション』
向井周太郎(武蔵野美術大学出版局 2009)

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ウルム造形大学にまなび、武蔵野美術大学 基礎デザイン学科を設立、ながきにわたり教鞭をとられた向井周太郎氏による最終講義のドキュメント。ウルム造形大学はオトル・アイヒャーにより1954年に設立された教育研究機関。バウハウスが植えたモダン・デザインの種を発芽させた場である。マックス・ビルによる「建築」から「環境」へのデザイン対象の拡張、ルフトハンザ航空のヴィジュアル・コミュニケーション、ブラウンのプロダクツなど、近代デザインの典型はここから生み出された。向井周太郎氏はこの著書でウルムでの在学経験をふまえつつ、モダン・デザインのプロセスを正確に翻訳し紹介される。いまのデザインの基準、そしてその根幹にあったものはなにか——それを知るに最適な一冊。なお向井周太郎氏は原研哉氏の師にあたる。


『デザインの小さな哲学』
Vilém Flusser / 瀧本雅志 訳(鹿島出版会 2009)

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Designという言葉を辞書でひけば「もの」としての名詞と、「する」としての動詞が混在していることがわかる。つまり「このデザインがいい」というあつかいも「デザインをする」というのも、いずれも正解である。しかし名詞のデザインは、動詞のデザインありきで成立する。自分自身から、あるいは周囲を取り巻く世界から、包括的なかたちを発生させるいとなみ。そして、なにかをつくるためには、そのための計画と目的の設定、問題の検証、倫理哲学が必然的にともなう。それらは一個人の作品ではなく、よりソーシャルなプロジェクトとしての役割をになう。そこにおいて造形力はもちろん、さまざまな知見に教養、そしてそれを適切に稼働できる自分自身が必要になる。デザインに携わる人間が、どのような射程で視点や力を持つ必要があるか、その範囲と領域を示唆する書物といえる。


『近代デザインの美学』
高安啓介(みすず書房 2015)

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現代におけるデザインの基礎といえる近代デザイン(モダン・デザイン / モダニズム)を俯瞰しつつ、その総体を整理するに最適な一冊。モダニズムは19世紀、西欧先進国における産業革命による工業化と都市化を土壌とし、20世紀の国際化時代に花開いたデザインの様式である。その時間軸のなか、各地で試みられた提唱や運動、主要人物とその仕事、モダニズム総体あるいは個別のキーワードや特徴、それが顕在化する要素の紹介、そしてそれらがいかにして定着し、継承・発展されていったのか。その潮流が明解にまとめられている。デザインといういとなみが、時代や文明と不可分であるばかりか、むしろそれにより形成された造形であり、理念であり、運動であることがわかる。そしてそれをつぶさにみれば発生した地であるヨーロッパでも、あるいはそれを享受した日本においても、あるときは過去の否定であったり、あるときは過去の継承と、アンビバレンスな状態を孕みながら、近代にうまれた様式にみずからの伝統や土着性を見出し、咀嚼しようという試みが当事者たちのなかで試みられていたことも興味深い。


『Grid Systems in Graphic Design』
Josef Muller-Brockmann ( Niggli 1981 )

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活字の規格を利用し、画面を規格化するグリッド・システム。画面全体を活字サイズと行で分割し、文字情報、図版、そして余白を同一規格のものコントロールしてゆく術。作業効率の向上、また共同作業を用意にしながら、数勘定のいく設計となる。これらはヨハネス・グーテンベルクによる活字の発明以来、写真植字を経て、こんにちのデジタル・フォントにいたるまで、媒体を変えながらも、その骨子は脈々とつづくものである。その歴史のなか、グリッド・システム的な視点・発想は幾度となく試みられたものだし、現在も散見される。しかし、それをシステマティックなヴィジュアル・コミュニケーションのため、自覚的に活用したスイス・タイポグラフィ、そしてその中心人物であるヨゼブ・ミュラー=ブロックマンによる本書は明確さと、それがゆえの基礎体系としての存在感が群を抜いている。


|Second|
「われわれはどこからきたのか」を
知るための6冊


『色彩論』
Johann Wolfgang Von Goethe / 木村直司 訳(ちくま学芸文庫 2001)

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色彩学の歴史には、おおきなターニング・ポイントが三つある。最初は1704年、物理学者 アイザック・ニュートンによる『光学』、それから1810年、詩人 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテによる『色彩論』、最後は1961年、造形家・教育者 ヨハネス・イッテンによる『色彩の芸術』。物理学者らしく科学として色彩・光を捉えたニュートン、教育者として色彩を体系化したイッテン、そしてゲーテは詩人・文学者としての視点であろう、色彩と光をみのまわりにある現象としてとらえた。現象としての色彩・光の発見は、その後のウィリアム・ターナーの出現を用意したともいえる。色彩は恒常的なものではなく、その場の状況やひとびとの心理状態でも微細に変化すること、それを長年のフィールドワークに基づきまとめた本書。体系的に色彩にふれた後、あらためて色彩とはなにか、そして光とはなにか、を考察する際、支えになる一冊。


『絵画論』
Leon Battista Alberti / 三輪福松 訳(中央公論美術出版 2011)

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ルネサンス期の造形者 レオン・バティスタ・アルベルティによる絵画論。現在では古典と捉えられるルネサンス。しかしそれは科学・数学といった人類知がコンセンプトとなった時代だった。芸術においてもそれは同様。前述した金属活字の発明は、金属配合と規格による数値管理のたまものである。なによりレオナルド・ダ・ヴィンチが医学的検知をもって人物を描き、図学に基づく遠近法が活用され完成したことは、この時代のトピックスとして周知の通りである。さて、その時代に記された絵画論。ここでは「面の上の点」「その点と点がむずばれ線がうまれる」という記述からはじまる。それはヴァシリー・カンディンスキー『点と線から面へ』を経て、こんにちのAdobe Photoshopのレイヤ構造、あるいはAdobe Illustratorのベジェ曲線へと脈々と続く、西洋的ないしは二元論的な視点・発想にもとづく造形技法であるといえる。西洋から輸入された「美術」が、根本的にはどのような発想で設計されているのか?それを理解するに最適である。


『陰翳礼讃』
谷崎潤一郎(中公文庫 1933)

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昭和初期、第二次世界大戦へむかう時代のなか、小説家 谷崎潤一郎により記されたエッセー。日本の近代化はすなわち西洋化と同義であり、それまで形成された文脈の切断でもあった。ともすれば、この随筆をいっけんすると、作者が失われゆくノスタルジーを憂う内容にみえるかもしれない。しかしつぶさにみれば、わたしたちのモダニズムとはなにか ? という考察であることに気づくだろう。この随筆が発表されたのは明治でも大正でもなく、昭和初期。とっくに西洋文化は輸入、定着され、近代化のインストールはとうに完了していた時代である。こうした背景をふまえず、ただ日本のむかしばなし——カリカチュアライズされた「和」として捉えてしまうと、このテキストの筋を見失う。西洋のものごとを優れたものとし、それを追う立場にあるのが日本という認識ではなく、西洋と東洋のちがいをふまえ、文脈を切断しないモダニティを考えるうえで、ここで谷崎の経験による考察はおおきな指標となるだろう。それは風土が育んだ文化や、時間の発見であり、もの単体ではなく現象をふくめた関係性によるアンビエントな総合感覚の自覚でもある。


『抽象の力——近代芸術の解析』
岡崎乾二郎 (亜紀書房 2018)

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造形作家 岡崎乾二郎氏による著書。近代以降の造形——建築・美術・デザイン——における命題のひとつは「抽象」である。抽象絵画に抽象彫刻、記号的にシステム化される色彩、ホワイド・キューブと称され工業素材で構成される建築、それらと同期する近代デザインの幾何学的な意匠。近代において抽象は命題でもあり、解答であった。つまり抽象、ないしは抽象表現を獲得することで、造形は近代化を達成したという見方もできる。では、その時代、なにか起こっていたのか ? ここで紹介される主人公は夏目漱石、熊谷守一、恩地孝四郎、ダダイズム、古賀春江、白井晟一、はては乃木希典……と、ともすればこれまでの近代美術史・芸術史・造形史の正史において、ある種、脇役的にあつかわれていた人物の価値や意味を再発見している点もおおきい。近代のなか視覚言語、そして造形言語がどのような背景のもとに準備され、形成され、構造化されたのか?その背景をみることができる。


『タイポグラフィの領域』
河野三男(朗文堂 1998)

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前述のとおり、西洋から「デザイン」を輸入した際、その「翻訳」が正確になされなかったことで、ある種の複雑骨折ともいえる齟齬の積み重ねが、各所で散見される。それはまたタイポグラフィも同様である。では、タイポグラフィとは、いったいなにか?かつて国内の商業美術界隈において、それはレタリングやタイプフェース・デザイン、あるいはロゴ・デザインと混合されたり、文字をもちいた造形表現という、やや的外れな捉えかたをされていた。いっぽう印刷や出版業において、それは活字を組版する行為を差した。タイポグラフィ、それが差す本来の領域とは ? この書物は、タイポグラフィの歴史を遡り、そこにおけるおおくの言説や人物を、文字どおり正確に翻訳しながら「Typography」を浮き彫りにする試みとなっている。ここで紹介されるおおくは中世から現在にいたるタイポグラフィ史のなかで培われたものであるが、こうしてまとめて翻訳・紹介されたことは、それまで国内では前例がなく、本書のおおきな功績である。

ヴィジュアル・コミュニケーション・デザインにおいて無くてはならない……否、その要となるインフラストラクチャでもあるタイポグラフィ。その意味と領域を理解することは、ヴィジュアル・コミュニケーション・デザインをまなぶうえで不可欠な責務である。グラフィック・デザイナー 白井敬尚氏が視感覚に基づき、すべてスペース調整をおこなった本文組版も、またみもの。それは本書の内容にたいするデザインとしてのアンサーであろう。


『エクリ叢書 I ——デザインの思想、その転回』
エクリ編集部 ( OVERKAST 2017 )

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「デザイン」を「書く」ウェブ・メディア『EKRITS』による書籍。ここではこの書籍とあわせ『EKRITS』のウェブ・メディアも紹介する。デザイナーやタイポグラファ、それにとどまらずメディア・アーティスト、キュレータ、プログラマ、哲学者、美学者、文筆家、ゲーム作家……さまざまな領域の人物による、デザインを通奏低音とした考察。このメディアをみれば、個人が世界や出来事をいかに捉え、考え、それを整理して言語化するのか……そのプロセスもひとつのデザインであることを再認識できる。同時に、これまでの商業的、ないしなモノ的な名詞的デザインの領域をはるかに超えた、動詞的な営みが現在におけるデザインの領域となっていることも理解できるだろう。しかしそれは、いまに始まったことではなく、人類がその誕生以来、ながい経験のなかで獲得し、形成してきた人智でもある。いっけんすると現在、デザインは拡張しているようで、その実、本来の面目に還元されているのかもしれない。それならば当然、これまでのデザイン観ではたちゆかない。それに気づいたとき、横断的な視点でデザインを捉える必要性に駆られるだろう。デザインはつねに再定義されてゆく。


|Third|
「われわれはどこへむかうのか」の
ヒントとなる3冊


『中世の覚醒——アリストテレス再発見から知の革命へ』
Richard E. Rubenstein / 小沢千重子 訳(筑摩書房 2018)

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原題はAristotle‘s Children。この書物は中世ヨーロッパにおける普遍論争のドキュメントである。デザインに留まらず、芸術、そしてリベラル・アーツは時代とその文明のなかで形成され、時代を象徴する思想・思考となる。そして、それは同時代の出来事ばかりではなく、過去にまなび、その価値を改めることでもおこりうる。中世ヨーロッパにおける普遍論争は、アリストテレス的世界観の再発見にあった。それ以前のヨーロッパの価値観はプラトン的世界観に基づくもので、それを端的にいえば、それは普遍を実在するものと捉えることにある。こうした実在論者にたいし、唯神論者は普遍は概念であり、実在しないとした。こうした唯神論者の支えとなったのがアリストテレスである。要約すれば「正しい人」というのが実在の人物なのか、それとも、それは「正しい人」という概念があるだけで、実際にはゆらぎがある個々の実在人物がある、というものである。

古代ギリシア哲学の再発見により、実在と概念を区別することで中世は覚醒し、それがルネサンスに代表されるヨーロッパ史金字塔となる、近世の準備となったことがわかる。歴史の価値づけ・定義を更新することが、次の時代のイントロダクションになることがよくわかるだろう。そうした歴史的経緯と、その記録はもちろん、はたして「正しいデザイン」は実在するのか ? それとも、それは概念としてのみ存在するのか ? そうしたことを考えさせられるものでもある。


『美の法門』
柳 宗悦(岩波書店 1949)

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近代日本における造形運動のひとつ、民藝。その中心人物 柳宗悦による晩年の著書。柳が積年の活動のなかたどりついた美、どうじに民藝の解題といえる内容である。ウィリアム・ブレイク研究に白樺派と、柳のキャリアのはじまりは西洋文化と宗教の紹介者・翻訳者としてであった。しかしその後、日本各地をめぐり、風土に由来した土着の産業、そこで生み出される何気のない生活用品に美をみいだし、それが継続的なるものとなるよう、造形や組織体系、意識の指導・保護をおこないなう。では、そこで柳をはじめ、民藝の面々が共通認識していた美とはなにか。それは西洋的価値観に基づくものとはおおきくことなる、民藝独自の美である。否、独自という表現は適切ではないかもしれない。それは歴史風土から浮きぼりになった、なかば必然的な美の文脈であるから。価値観そのものを模倣するのではなく、じぶんたちの価値観でもって、美を形成すること。そしてその背景にあるものとはなにか。柳と民藝が実践したことは、それから百年をむかえんとする今日、あらためて再興するものかもしれない。


『新編 東洋的な見方』
鈴木大拙 / 上田閑照 編(岩波書店 1997)

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鈴木大拙は近代を代表する仏教学者。おなじく近代を代表する哲学者 西田幾多郎の盟友であり、柳宗悦の生涯にわたる師でもある。明治のはじまりから、東京オリンピックの2年後にいたる、96年に渡るながい人生は前半と晩年で二度、およそ10年におよぶアメリカでの生活がある。西洋化する近代日本と、海外での暮らしと指導経験を経て浮き彫りになったのは、西洋と東洋のちがい。谷崎潤一郎に岡倉覚三、和辻哲郎に西田幾多郎、あるいは柳宗悦……日本の近代思想、それらに共通する通奏低音のようなものが大拙の思想に漠とみえる。大げさにいえば大拙の思想は日本のモダニズムにとって、ひとつの解題といえるかもしれない。その軸となるのは未分明の自覚。

Yes —— Noの二元論にもとづき判断をしてゆく西洋にたいし、わかれる以前の存在をみとめる東洋。それは、キリスト教なるものと禅のちがいともいえるだろう。こうしたものは、無意識レヴェルで各所にくらす人々の水脈となっている。たとえば、環境ということばのとらえかたも、大拙の弁をかりれば、自身の外界をさすのではなく、そのなかのひとつとしての自己を自覚するという具合なる。ここで、対照的におもいうかぶのは20世紀の建築家・デザイナーであったマックス・ビル。彼がデザインの対象として目指した「環境」の位置づけは、基礎過程から建築へと同心円状に拡張するバウハウスのカリキュラムを想起するものであり、おのずとその中心に人間の存在をみることになる。ビルのいう環境がEnvironmentalだとすれば、大拙のそれはAmbientといえるだろう。記号的にわけられない、主客一体となるひとつのものごと。もちろん鈴木大拙自身は仏教学者なので、デザインのはなしはしない。しかし、今日においてこれが解像度のたかいデザインのはなしともみることができる。

|追伸|いうまでもなく今回サブタイトルの元ネタとなったのはRATMこと、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンです。
|追記|今回の連休課題のレポート。なかなか見応えのあるものもおおく、すこし驚いた次第です(13 May 2019 追記)


24 April 2019
中村将大

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