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生きること、学ぶこと


ICEアプローチが今なぜ求められるのか?


〜カナダで生まれて日本で育ったアクティブラーニング〜




 
2章  ICEのもたらす豊かな学びとは?
 
 
ICEの何が、これまでになかったことを可能にするのか?
 
ICEはどのように使われているか(むしろICEの初期的理解の方法)
ドイツ語の先生ですが、学生に短い文献と3色の蛍光ペンで学生たちに対して著者がアイデアの部分に、また著者がつながりとして作っているものに、さらに拡張部分に印をつけなさい、と指示、作業をさせることによって、アイデア、つながり、拡張の概念を区別して理解することを援助します。この違いを見つけることが重要なのです。他人の論文の中で違いを見つけることができるようになると、学生達は自分が作業しているときにもできるようになります。(Sue)
 
映画論について教えている方が、3つのフェーズを使って課題を出しました。学生に何を読んだかアウトラインを書きなさいと指示し、そして最重要な点は何かを書かせます。2番目の課題として読んだことがこれまで読んだものとどう関係するかを書かせます。つながりを作るようにさせているわけです。もちろんフィードバックを行います。そして最後に学生が課題として取り組んできたことが将来の作業にどのような意味があるのかを書かせます。(Sue)
 
クイーンズ大学でICEを学生に説明するときに、一番良く使う事例です。ビジネススクールの教師が使った事例です。皆さんの中にはトースターの中で壊れた部品のリストを並べた人がいます。確かにそのリストは合っていましたが、そこまででした。ある人は壊れた部分を指摘して、この壊れた部分がその他の部分にどのような影響を与えているかを書いてくれました。しかしそこまで。ほんの一部の人が、何が壊れているか、それがその他の部分にどのような影響を与えるかに加えて、どうやってトースターを治せるのか、トースターが壊れないようにするにはどのような予防策があるのか、というところまで書いてくれました。(Sue)
 

ICEが鍛える想像力とは?

学びのスタートとして「人間の想像力」を置くことの意味は何か?
 
日常のことば(自己表現)から社会参加のことば(実用語、専門的ことば)そしてヴィジョンを描く想像力のことば(人間と非人間=神や自然の同一性の崩壊や再生をもとめるものが想像力の働きである)と、ことばの質は変容していく。<この想像力の世界は現実の世界(いろいろに歪められた世界)よりもずっと重要であり真実の姿である>ということを学びのスタートとして置き、<ものがたりの全体の構造にこそ集中する。そして鍛えられ方のよい想像力を持つ。>これが学びの原点である。(加藤周一)
 
ノースロップフライ「Educated Imagination」から始める。” Knowledge of literature can’t grow without the knowledge of allegory allusion, simile, metaphor>であるから欧米ではHow to teach literature to children として聖書や神話をIt should be taught so early and so thoroughly ” と徹底する。子どもの頃から学ぶことばのすべてに想像力が必要になる。
 
ドイツ人は「人間とは何か」に疑いを持っていない、そういう文化を培ってきたという説明に、あーそうなのかという思いに至ります。日本人には共有する哲学的な思想がないのか?と問われると、丸山真男の日本のかくれ形や加藤周一の古層を思い起こします。なぜこれが今に伝えられていないのか。それが集団としての考えになっていないのか、なにが足りなかったのか。渡辺一夫が、寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか(「僕の手帳」)やカミユが「ペスト」で言っている<殺すより殺される側に立つ>というのも自分が決めた絶対的なことを個人として明示することでした。
 
堀田善衛の「方丈記私記」に、近衛文麿の天皇への上奏文の真実や3.10東京下町空襲後3.18の焦土視察での市民の土下座の場面と定家や藤原兼実の安元三年の火災を記した内容は、為政者と庶民の関係において同質のものであるとして「政治がのうのうとこの人民(庶民)の優情に乗っかっていたのではないか」と言います。

それがコロナ災厄での日本の政治の姿勢にもあるように思えます。リウー医師がリシャール医師会会長と対立し、天災は常に法や行政の対立と結びついている。誠実さが戦う唯一の方法である。それは自分の仕事をすることである。今私たちは自分のできる仕事をしているのだろうか。カミユは人間に必要なものは「無知」(ソクラテスが言う)であると。自分は何も知らないと言う気持ちで全ての可能性を否定しないことから出発すべきと言います。これは私の学びのスタートです。

あなたはどのようにお苦しいのですか」と不幸な人についてしっかり注意する目を持った人、注意力を働かし、想像する能力を持った人になりたい。注意力や想像力の性質は祈りの性質と大変深い関係にある。(シモーヌ・ヴェーユ「神への愛のための学業を善用することについての省察」)
 
想像力はなぜ必要か。アリストテレスの言う想像力は全ての知識の基礎であるということは正しいように思うが---。脳は絶えず色々なものを、パターンを、概念に統合している。Perceptionは事実、思考、感情を選び、まとめ解釈し、体験する本質的な詩的行為であると考えるダーヴィンは、想像力は意志とは無関係に過去のイメージとアイデアを統合して新しい結果を生むものと言う。ブレイクは想像力によって時間の経過とともに豊かになる。主観と客観が橋渡しされ、世界の内部の活力とその相互接続する外部を知覚する。(愚者は賢い人が見るのと同じ気は見ない)シェイクスピアのように、他者の想像を通して世界を想像できる人もいる。だから他者を知ることが大切です。想像力のない世界は一体どうなるのか。(David Brooks「Why we need to imagine?」)
Brooksは、想像力は現実を認識し、他の現実を試し、可能な未来を予測し、他の視点を体験するもの。だから学校で、この本質的な能力を何よりも優先して学ばなくてはならないと強く主張します。
 
俳句に描写力ということがあります。生きた学びの知識のポートフォリオを書くと自分はどんな人生を送って来たのかと考えます。高浜虚子の人生はことばを生み出すことでした。丁寧なことば、正確なことばやさしいことばは鍛錬がないとつくれません。井上ひさしや大江健三郎はひとつのことばを生み出すのに何十年もの経験と思考を積み重ねてきました。深い考えですがとてもやさしいことばで表現されます。客観写生を追究してきた虚子は森羅万象を観察しました。写生には心の感動が必要です。それをことばで表現するにはすごい鍛錬が必要です。想像力の鍛錬が必要です。
 
 
なぜ想像力を考えるとICEにおける(E)の位置づけはより明確になるのか?
 
(E)における想像力とは鍛えられたものでなくてはならない。これをどのように言語化するかは教師の資質による?(フライの指摘は文学だけでなく人の生き方そのものを示唆している。)

学問を正しく教えるにはすべて中心から出発して外辺へと向かう。すなわち想像力のことばから始まり、実務や日常生活、職業のことばへの応用と出ていくべきである。創造的文章と論証的文章のちがいが本当にわからないまま大人になっている人が沢山いる。通い慣れた思考の軌道しか通らない手垢のついたことばに埋没しないように教師は注意深くなければならない。」「学びのスタートとして「人間の想像力」を置くことの意味は、すぐには何もしないことの重要性は心で考える時間と空間であり、これを持たないと本当の(C)にならない。従って(E)にはなかなか至らない(柞磨)
新しい価値が創造されるのが(C)であるから、想像力のないスタートからは決して(E)に発展するものは生まれない。
 
教師はことばの定義を曖昧にしたまま使うことが多いことを反省すべきである。鍛えられていないことばや想像力の見えないことばは生徒の心を動かすことはない。
 
ここにSuper-(E)(学びの本質的な目的)を教師がどのように持つかが問われるのである。例えば、数学のSuper-(E)は数学的解決者になるということです。同じように各教科のSuper-(E)を考えて欲しい?さらには、質の高い(C)には「転」「破」が存在する結合である。このことをICEルーブリックでは明確に記述することが重要である。この思いがけない結合を授業では「転」「破」に相当するものとして捉える。これがないと情熱が内側から湧き出るといったことを期待できない。知識化されたもの、予定調和で進んでいくものには、その人しか持ち得ない生命の息吹を生むことはできない。坂口安吾「ふるさと」のない小説は意味がない。(柞磨)
 
 
想像力は人の生き方を多様にしていくと同時に中心を作っていくとは?
 
大江健三郎は鍛えられた想像力を持って四国の森を拠点に物語る。不条理は他者として現れ、私達は惑い、葛藤の中ではじめて生きることの意味を問う、そしてその問いを高めていくことができる。「個人的な体験」以後は生きのびる人間の意味を言葉に変え問うことに精魂を傾けてきた。祈り=救済に至る心因的葛藤とヨナを呼び起こす「滅亡」の想像力の昂進は作家の内部で重層し、「全的滅亡」による神の降罰を現出し、そこに人類の和解を提示すべく、自己の全身全霊をジャンプさせた。こうして自分の中心を作っていく。H.オーデンは「作家は一人で狂気に立ち向かう自由を与えられている。いかにして自由から自己幽閉へ、自由から狂気へ向かえるのか。狂気とはもう一つの狂気と交流し、もうひとつの正気と交換しつつ、生成しゆくものである。」
 
大江は想像力を全ての生き方の中心に置く。想像力が漠然たる空想に陥らないためには、ダイナミックな力と指向性を与えるための基盤がなければならない。基盤=誰もが一定の理解を示すもの、科学的あるいは歴史的根拠などのようなもの。つまり、「思考の仕組み」と言えるもの。その思考の仕組み(言葉や内容)から想像力がどのように活性化するかがわかる。想像力は、現状からジャンプして、超えたところ向けて跳ぶのである。想像力は根本的に指向性がある。受けての想像力を喚起するのが想像力である。大江は「懐かしい年への手紙」などでT・S・Eliotから多くを学びます。そのEliotが、ロマン派のColeridgeの「文学的自叙伝」(法政大学出版)に「想像力」の深い思考があると評価します。想像力は、一つは、注意深く観察することと自分の体験と関連づけることで見えないものと対峙する力です。

これは新しいものとの出会い(I)です。見えたものを異質なものと結びつけて新しい文脈を形成することがその次の機能です。(C)です。その結果、想像力は統合されて質的な変革が行われていきます。それまでに学んだものとは全く別のものになっていくのです。(E)です。創造力はICEを活用した学びには必須です。想像力の特質は歪みということかもしれない。危険な想像力とともに、それを打ち壊して、自分の想像力では把握できないものに自分を押し出していく。
 
鶴見俊輔が父から受けたことばです。「葬儀のときには簡潔な挨拶をしなさい。お悔やみを申し上げますと。」寡黙なことばは強い表現ともなります。動詞は時代が変わっても変化しませんが、形容詞や名詞は変わっていきます。時代によって変わることばはできるだけ使わないようにしてきました。これも想像力です。
 
もう一つ戦後教育の渦中にいた南原繁の想像力について記憶したいと思います。(「文化と国家」)

もし、戦後南原がいなかったら、今の高等教育すらもなかった。南原繁は、明治維新が近代国家の形成だけに膨張していったことで、「人間の発見」がなかったことを指摘しています。明治維新にこの経験(日本的ルネサンス)があれば、戦後の日本は個性ある人間として世界に通用するはずであったと。今日の日本を見通していたかのようです。素晴らしい想像力です。「大学の自由」をこれだけ主張した南原繁の思いを私たちは忘れてはならないと思います。
 
私たちはこれからどのような世界を想像すべきか、学生と教師が共同で考えた。30年後の世界の人間の姿である。エコノミスト誌によると、人口90億人の70%が都市に住む、医学の進歩で寿命が100歳を超える、少子化で人口増加はゼロに近づく、GDPは中国・インド・ブラジルがトップになる、宇宙の解明が進む、環境汚染(地球崩壊)の限界になる、データテクノロジーで民主主義が崩壊の危機になる、コロナのように短期予測できない自然(人口)問題が起きるなど。こうなってくると私たち人間は偶然で不確実なものの中で生き延びていく必要に迫られる。わたしたちに残されているものはただ「想像力」である。だから想像力を鍛える学問が必要になっている。(東大教養学部 フロンティア)
 

ICEはInsightfulな学び(洞察)を呼び起こす?

私には「異質なもの(=他者性)」との出会いがなければ学びは深まらない、という意味に思えます。私はそれを「転」と位置付けており、そのための問いをinsightful questionとしています。大雑把にいうと、学生の感じ方、捉え方を始点として、それを発展させ(lead question)、それに「転」を持ち込むという流れです。全体として、主体性を担保するために、指示ではなく、問いによる介入を行います。(柞磨)

ここで最も大切なことは、テーマに関して「自我関与」が高まっているかどうかです。

これが主体的な学びの生命線だと考えています。テーマや課題は、学生の「願い」にまで昇華していなくては「教え込み」になってしまいます。これまで見てきたPBLも形だけPBLで、課題が真に学生自身の課題になっていないものが多かったです。そういうものは学生が心底楽しんでやっていないので、わくわく感や活気が感じられませんでした。本当に「未来を選択しよう」としない限り、スキルの習得レベルの学びで終わってしまいそうです。
(柞磨)

まとめると
①学びには自我関与が必要不可欠。所与のテーマを自分の環世界に位置づける。意義を感じること。

②課題を「自分の願い」にまで高める。これは自我関与が低いと不可能。
 ⇒ 自我関与を高めるために、田辺先生(元県立安芸高校国語教諭)はヘッダーという手法を編み出されました。

③考えを発展させ、その先に「転」を持ち込む。これは他者性の導入であり、学生の協働過程で生まれること(新たな疑問や論点)が望ましいのですが、教師が「洞察を促す問い」「議論のための問い」を投げかけてもよいと思います。

教師のかかわりとしては、まず自我関与を高めさせること、これはそんなに難しくはないです。むしろ課題を自分の願いにする、これが最も力量を必要とする場面です。「洞察を促す問い」は、学生も教師もともに冒険者・探検者になれるのでとても楽しい段階です。

因みに、Lead questionのうち、自我関与を促す問いの例は、「目的を持って働いていますか?」⇒「宝くじが当たったら働くのをやめますか?」「笑うといいことがありますか?」⇒「どんなとき一番よく笑いますか?」「必要悪は何ですか?」⇒「ダークヒーローは好きですか?」「沈黙の上手な使い方は何ですか?」⇒「周りに沈黙上手な人はいますか?」「子どもから学べることは何ですか?」⇒「大人になって失ったものは何ですか?」のような感じです。(これらの問いは書籍からの引用です)(柞磨)
 

教師の思いと学修者中心の学びとは?
 
知識の積み上げではなく、どこからでも始められるということが本来的な学びだと思います。子どもは遊びの中で自分が主人公として、周囲とかかわりながら学んでいきます。子どもの周囲には(E)だらけです。学ぶのに、難しい階層や順序は必要ないのです。教える側が効率を最優先する都合があり、学びを一定の型にはめようとするのだと思います。それはやむを得ない事情かとも理解しますが、教師はそれに無批判ではよくないと思います。
 
私は生徒や学生自身が、最終的にICEのフレームで物事をとらえ、判断・行動するようになってもらいたいのです。現に、ICEをやった多くの先生が、物事をICEの枠組みでみてしまうと言っています。教師がICEを使うのですが、最後は学ぶ者がそれを習得して、生きることに役立ててほしいのです。Extensionsは人と人とをつなぐ、大切なフェーズです。
 
人は、人によって人となり、豊かに生きていけるのだと考えているので、Extensionsは大切なものです。いくら認知や技能が発達しても、みんなが参加でき、時間や空間を分かち合えないようであれば、教育の意義は半減すると思います。私は生徒や学生自身が、最終的にICEのフレームで物事をとらえ、判断・行動するようになってもらいたいのです。(柞磨)
 
教育を司る文科省は、行政の仕事として基準を作り、対象を評価し、資金配分する。その結果は教育を汎用的な様式の中に閉じ込めざるを得なくなる。一方、教育の本質にあるものは自由である。多様な学びをこそ求めるのが教育です。日本にも昔からあるにも関わらず、改めて欧米から輸入したアクティブラーニングはまさに学び方の多様化を促すものです。この考え方を支持するのがICEです。初等中等教育の問題は、学びの大前提として「正しい答え」が存在していて、それを教師が持っていると考えることにある。実社会ではあり得ないことである。このことが、大学でも行われるようになってきているという危機感がある。これが、タグが指摘するInstructional Myth(教育神話)である。
 
教師と生徒(学生)がICEを共有のことばとして理解することで、どのような活用が行われて、それらがもたらした意味や課題について考察する。実践者の諸言を引用しつつ、具体的な問いを考えてみた。これらを議論する中で、次の学びへ飛躍するきっかけとなればよいと考える。ICEはコンセプトであり、フレームであり、アプローチであり、実践メソッドであり、学習者の省察的評価でもある。


 


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