生きること、学ぶこと
(問い)デザイン教育は何を鍛えるか?
〜「未来型学修デザインラボ」(宮原俊之先生)の風景〜
「人生に意味はない。Nothing is what you think it is.」
「人生に意味はない。Nothing is what you think it is.」スタンフォード大学dスクールの創設者のバーナード・ロスの言葉である。dスクールは、デザイン思考という潮流の先駆的存在である。やると決めた時と、やろうとしている時は違う。言い訳は自滅行為である。達成することよりも、実際に行動することを強化してレジリエンスを築く。目標達成を妨げるものが気にならなくなる。自分の習慣をつけること。これらはデザイン思考に根差したものである。コンセプトは、共感、問題定義、アイデア、プロトタイプ、フィードバックとする。
授業ではプロジェクトを自分で選ぶ。プロジェクトそのものの評価はしない。自分で決めたことを実際にやったかどうかで評価する。学生が得るものは、自分自身に正直になること。自分のモチベーションや特質について理解を深めることにより納得のいく人生をデザインする方法を見出すことである。(バーナード・ロス「スタンフォード大学dスクール」講談社2016年)
2019年から、帝京大学八王子キャンパスで「未来型学修デザインラボ」(宮原俊之先生)という学生が自らテーマを選択して、15回の授業設計を行い、教師が介在しない授業を行い、学んだことを形にする(ブリコラージュ)授業を始める。そんなことが可能なのか?という懸念があったが、できるのである。参加対象は全学部、2年から4年まで、授業は協同学修である。「当たり前とは何か?」「脱大学?」「いかにして自由を得るか?」「f大学のアンバンドリング?」などテーマは多様である。自分でコースデザインをするから、授業時間はもちろんのこと、予習や復習なしでは、学修は展開していかない。授業以外の時間の使い方に依存することにもなる。形のあるものを制作するので、机上の議論だけでは何も進まない。チームの協力も個人の力も試される。決断を迫られる。授業そのものが、個人やチームの潜在能力を引き出すことになる。大学は、学生が本来持っている意思や力を引き出して、どれだけ成長することができるかが問われるところである。最初は寡黙な学生が終わってみるとリーダーシップを発揮している。また、リーダー的にみんなをリードしていた学生がサポート役に徹する。それぞれが自分の居場所を見つけて、自らのアイデンテティを見出していく。ピアー学修の鍛錬を経て、他者を支援することが身についてくる。
狩猟人たちは、すでにあるものを新しい用途にブリコラ―ジュして道具をつくっていた。(レヴィ=ストロース「構造人類学」みすず書房1972年)
子どもたちはどんな素材でも遊びの道具にしてしまう。想像力について考える。想像力が漠然たる空想に陥らないためには、ダイナミックな力と指向性を与えるための基盤がなければならない。基盤=誰もが一定の理解を示すもの、科学的あるいは歴史的根拠などのようなもの。つまり、「思考の仕組み」と言えるもの。その思考の仕組み(言葉や内容)から想像力がどのように活性化するかがわかる。想像力は、現状からジャンプして、超えたところ向けて跳ぶのである。想像力は根本的に指向性がある。受けての想像力を喚起するのがまた想像力である。
大江健三郎は「懐かしい年への手紙」などでT・S・Eliotから多くを学ぶ。そのEliotが、ロマン派のColeridgeの「文学的自叙伝」(法政大学出版)に「想像力」の深い思考があると評価する。想像力は、一つは、注意深く観察することと自分の体験と関連づけることで見えないものと対峙する力です。これは新しいものとの出会いです。見えたものを異質なものと結びつけて新しい文脈を形成する、あるいは自己変革をしていくことがある。その結果、想像力は総合されて質的な変革が行われていく。それまでに学んだものとは全く別のものになっていくのです。想像力の特質は歪みということかもしれない。危険な想像力とともに、それを打ち壊して、自分の想像力では把握できないものに自分を押し出していく。
「デザイン思考に必要なもう一つの創造力はどこからやってくるのか。創造がもたらされるのは、外部からである。しかも、受動的に創造が発想されるように能動的に整えるのである。アートである。自分における創造の評価は他人とは比較できない。自分にしかわからないことで、AIには絶対にできない。」(郡司ペギオ幸夫「想像力はどこからやってくるかー天然の表現の世界」ちくま新書2023年)
デザイン教育の重要性は米国でも注目されてきた。主要産業になっているサービス事業の体系化には、デザイン教育(=解決策がひとつでない課題に対するアプローチを学ぶ学習)は必須になる。ボストントライアングル連携のオーリン工科大学(工学)、ウェズリー大学(文化・芸術)、パブソンMBA大学(ファイナンス)がある。スタンフォード大学やUCLAバークレイ校でもデザイン教育に力を入れている。世界を見ると、音楽専門アカデミーではなく、MITやハーヴァード大学でのSTEAM教育やBYUでの芸術家への専門的なレトリカル教育などで、世界の著名なオーケストラで活躍できる人材が生まれている。
デザイン教育の源流はデューイ・スクールにある。
デザイン教育の源流はデューイ・スクールにあるのではないだろうか。子供たちには、モノを発見したい、作りたい、自らを表現したい、コミュニケーションしたいという欲求がある。シカゴの実験教室をイメージしたのがスタンフォードのd.schoolにある。b.schoolが机上の理論や議論から学ぶことに対して、モノづくりの実践を通した学びである。1969年に始めた「社会におけるデザイナー」の授業がスタートであった。自分の人生を点検して自分の手で人生をコントロールするため。シリコンバレーの大手に就職して夢破れた多くの若者がいた。自分で人生をデザインすることが重要と考える。責任を持って行動を起こすこと、そのためにデザイン思考を取り入れる。
「デジタル時代にはAppleのようにデザインの形をしたアートがある。アートはいかなる権力によってもコントロールできない。人間的な存在である。そもそも人間の起源はアートである。「アートとは何か」は誰もが考える問いである。出会いの瞬間までアートは存在しない。従って、作品に出会うこととは作品の存在に出会うことである。アートは知覚を超えたものであり、あらかじめ定まった意味や制度を超えた次元に存在する。アート作品は個体であり、その存在はどんな普遍的構造とも結びつかない。ラディカルに自律している。」(マルクス・ガブリエル「アートの力」堀之内出版2023年)
小澤征爾と一緒にサイトウ•キネンを育ててきた栗田泰幸や海外オペラの日本公演プロデューサーの児玉晶子は、デザイン教育が持つ力を信じている。一流の音楽家は「子どもの想像力や感性」をとても大切にしている。経験で感じるのは、芸術家として一流レベルの人達は、あらゆる方面のことを彼らの思考のため(=自分の糧にして、芸術に昇華するため)に知りたがる、刺激を受けたがる、といっても過言ではない。まさに、そういう本能が普通の人より超貪欲なのがアーティストである。真っ白なキャンバスに、イチから描く絵画をやる画家に比べると、確かに音楽家は再現芸術で、なぞればよい楽譜があるので、哲学マストではなくとも、とりあえず音は出せるかもしれないが、人に感動を与える演奏をするには、思考して、そのアーテイスト自身の何かを昇華させない限りは、ロボットの自動演奏の方が完璧な日が来てしまう。
クマールが目指したものも、やはりブリコラージであった。
平和主義者のクマールが目指したものも、やはりブリコラージュであった。モノが余計にない。簡素でスッキリとした生き方である。モノを手に入れるという欲望を捨てて、自然と向き合うと改めて自然とのつながりが見えてくる。試験勉強のための教室や工場ではなく、自分を発見する場所としての料理、畑、家づくり、裁縫、修繕、大工、音楽がある。
そこでは、土と魂と社会という領域が鍛錬される。作るという行為そのものの価値を学ぶことである。より少ないものでよりよく生きる技術をアートと呼ぶ。作る技術アートの土台の上にエレンガント・シンプリシティが築かれる。先住民のアートは日常生活になくてはならないものであった。私たちはそれを受け継いでいる。(サティッシュ・クマール「エレンガント・シンプリシティ」NHK出版2021年)
未来型学修デザインラボで学ぶということは、仲間を信頼し、協同活動を通して自分という宝物を発見し、その原石を人生をかけて磨いていく方向を持つことの大切さを経験することではないだろうか。
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