生きること、学ぶこと
経験という学びはどのようにして生まれるか?
2024年パリで開催されるオリンピックがある。森有正とは遠い世界である。
学びの結果には発見が伴う。否、発見するために絶えず目覚めているのが生きて学ぶということ。自分自身の発見とは自分だけの経験でもある。「発見=discovery」、覆いを取り除くことですので、学びの対象と自分の間にある幕を取り去ることです。ニュートンの万有引力の発見。「経験」をすると人は歓喜が湧き出る。そうか!わかった!紀貫之「かげみればなみのそこなるひさかたのそらこぎわたるわれぞわびしき」(土佐日記)月と星の違いがあるが、同じことをガストン・バシュラールが言う「実際の星を見るよりも水の中の星を見る方がイマジネーション(想像)を沸かしてくれる。」
(木下順二)
宇沢弘文は発見するためには余分なものを除くことであるという。学生の頃、山の中で断食をしていて限界になると紅葉の赤や黄色の鮮やかな色が見える。現在のように、周りに豊かなものがあり過度の豊穣が取り巻いていると本当のものが見えなくなる。本当のものを発見するためには、「断つ」ことが必要ではないかと考える。
パリで経験と体験について思考した森有正は次のように考えます。
「日本文化の在り方をふりかえるならば、そこに体験的要素がきわめて強く、外国から入ってきたものを、その経験の根底まで掘り下げて思索することをせず、むしろ逆に新しいものを自己の体験で、理解し得るものに変化させようとする傾向が無意識のうちに強く働いていたように思われてならない。」(「遙かなるノートル・ダム」)人は経験をしたことからあるものはそれが今の自分にも働きかけてくる。それは過去のどこかの時点に凝固したもので生きたものにはならない。一方経験は未来に向かって人の活動が生きていくものです。本当の経験は未来に向けて不断に新しいものを生み出していく。学ぶということは未来に向けていつも心が開かれているということです。だから、私たちは体験を経験化する努力をしなければならない。経験には必ず不可知的要素が入ってきます。モンテーニュは自分に知られない未知のものを探していた。さらに外側の不可知だけでなく、内側にあるものも経験の深みにおいて探究する必要があります。
日本人は西洋人に比べて画一的、集団的です。体験主義ということでもあります。個人の判断を優先しないと豊富な経験が共有できません。技術優先の考え方も体験主義に近いものがあります。どのようにして経験化するかですが、一つのことを追求したら本当に成熟するまでは探究を続けることです。発見があるまでです。仕事が伸びるほど成熟性は高まります。短期に結論が出るのは経験の域まで行っていない。
森有正は30年間ひとりパリに放浪して、パリで死ぬ。自らを孤独にすることで多くの自分の経験を発見した。ノートル・ダムに毎日のように通い、その度に新たな経験を積み重ねた。私たちが学ぶのは日常の観察を通した経験の発見ではないでしょうか。
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