【大人病】マインドブレーキ理論
人の脳は大量の知識や経験を覚えられる。まるで限界がないかのように、勉強したら勉強した分だけ素直に知識が溜まっていく。色々なことを覚えたけれど、なかなかこれがいっぱいになることはなくて、すぐには思い出せなくても言われたら思い出せるくらいには頭にちゃんと残ってる。
普通の考え方ではこれは良いことだ。知識はあったらあった分だけ良いと言われるし、どこまでも「勉強しなきゃ」ってことに終わりはない。
けれど僕はこれは本当にいいことなんだろうかと問いてみた。ない方がいい知識もあるんじゃないかって。
色々な知識と経験を積み上げていった生き物が「大人」と呼ばれる。大人になってしまって、逆に失う行動力や発想力というものが確かにある。
大人になることが必ずしも良いこととは限らない、
というわけで、今回のテーマは。
「知識が思考の邪魔になってしまう」という話をしよう。
知識のブレーキ
車や自転車を運転しているとき、ブレーキを踏むのは「人の脳」だ。
足が勝手に動いてブレーキを踏むわけじゃなくて、「ブレーキを踏め」という指令はその人の知識や経験によって導き出された結論で、それを脳から足へその指令を送ってブレーキを踏ませ、車を止める。
人を行動させるのは好奇心や経験則によるものだったりするけれど、
人の行動にブレーキをかけるのもまた知識と経験則によるのだ。
・赤は止まれ
・一時停止は止まれ
・目の前に人がいたら止まれ
などの知識を持っているからこそ、人は「絶対に止まらなければいけない」ものとしてルールを決める。
こういう判断を持った人間はもう一生歩行者に車で突っ込むことは無いんだろう。
そうやって積み上げてきた「絶対的に正しいもの」によって構成されたルール群が大人になった時のその人の「常識」になる。
そして一度常識となってしまった結論は、相当なことがない限り一生同じ判断をし続ける。
「赤はブレーキ」という判断をし続けるロボットのように、その理由その意味そのメリットデメリットをいちいち考えることなどなく毎回正しい判断を下すようになる。
僕はそれを咎めたいわけじゃないんだ。そう短時間で多くを判断できるようになるのは素晴らしいことだと思う。
だからこそ、大人になる前にその常識形成のための知識を選ぶべきで、時には常識となってしまった知識を忘れて更新する必要もある、ということを僕は言いたい。
例えばコンビニの便利さを知ってしまったら、頻繁にコンビニに通うだろう。ただそこにはコンビニという便利な空間を作るためのコストがかかっていて「モノを買う」ということに関して非常にコスパの悪い商品しか置いていない。無駄遣いしやすいのがコンビニだ。
その高いコンビニに通うことで金銭感覚が狂ってしまったり、面倒という理由でスーパーに行かなくなってしまったりするだろう?それは悪い経験というやつかもしれない。
あるいは超高速なパソコンを使った時、「普通のパソコンでは効率が悪い」という知識が手に入るだろう。そうなるともう普通のパソコンで作業するのが億劫になってしまったり。
また陰謀論だったり宗教だったりというのも、知らないままの方が良いって言われることが多い。
外から見たらその一見くだらなそうな理論にハマってしまうのは損のように見える。本人がそれで幸せでも、周りの人がそれで迷惑をするのなら100%知っていい知識とは言い切れない。
本人がその知識を得て満足していても、必ずしもそれが正しい理論とは限らない。知識が無駄どころか、知ることで損を被る知識というのは存在する。
知らない方が良い知識
地味に伝わりやすいのが「ミステリー小説の真犯人」とか。
ミステリーなのに最初から展開や結論がわかってしまったら、そのミステリー小説を読む意味がなくなってしまう。その結論に至るまでに、その目的のために散りばめられた情報をたどり、ストーリーに沿って結論を導き出すという楽しみ方ができなくなってしまってはもう読む意味がない。
ミステリー小説の真犯人パターンを知ってしまったなら、人はミステリー小説を読まなくなってしまう。教えてもらわなくてもミステリー慣れしてしまって、経験でなんとなく「こいつだろう」ということが分かるようになってきたりすると、そんな純粋な楽しみ方でもう小説を読まなくなってしまうだろう。
知らないからこそ楽しめる、まあそれ自体はどうでもいいことだと僕は思うけれど、ただそれに付随する知識やモノの考え方や小説の描き方などのその他の情報もセットで見る機会がなくなるっていうのが勿体無い。
ミステリー小説に限らず、大人になるとアニメを見なくなったりゲームをしなくなったり、勉強をしなくなったり新しいことに挑戦しなくなったりという現象が起きる。
僕も今では創作物を純粋に楽しむことができなくなってしまった人間だ。「他人の考えた他人の頭の中の物語になんの意味が?そんな勝手なものに価値はないだろう」なんて、そんなことを考えてしまう。
これもある種のブレーキだ。「物語に意味がないことを知っている」「面白いだけの創作物を追いかける必要がない」ということは、「他人の考えたゲームの上で遊ばされる必要がない」というメリットがあるけど、逆に話題のゲームだろうと話題のアニメだろうともなかなか手が出なくなってしまう。
人が楽しんでゲームをやっているのに、そこに「くだらない」という感情が入り込んでしまうともう純粋に楽しめない。
こんな時に「ああ大人になってしまったなぁ」と。大人になっていなければ、話題のゲームをプレイしてそこに含まれている最新技術や流行りの世界観だとか、面白さとしての表現方法などの情報が手に入っただろうに、僕の視点ではもうゲームそれ自体が楽しそうに見えない。
これが「大人になる」ということのデメリットだと思う、これを僕は大人病と呼んでいる。
時に知識を忘れて行動する必要がある
例えばアプリ開発をしていたとき。
その時に「手順通りにやったけど動かなかった」プログラムがあった。自分はそれを「このプログラムはやっても動かない」という経験になってしまった。
ということはもうそのアプリ開発は諦めるしかない。だって「プログラムが動かない」のだからもう「アプリは作れない」って。。。
こんなプロセスで人は物事を諦める。
自分にはもう無理なのだと、自分の中でその知識が手に入ってしまったら、人は諦めてしまう。
この一回覚えてしまった経験が、次の機会を失わせたり、二の足を踏ませたりするんだ。
再びチャレンジするにはその「自分には作れない」という経験を否定する必要がある。だけど、それは自分の経験が間違っていたことの証明になる。。。
だから人はチャレンジすることをやめる。それでいいと思ってしまう。できなかったことはもう一生できないのだと諦めて、その知識を一生抱え続ける。「自分にはできない」を常識としてしまう。
また似たように、「自分ができないこと」「嫌なこと」「意味のないこと」というものをある程度経験で決めつけてしまうのも大人病だ。
例えば、「人を描けない」という経験を持っている人は「自分は絵を描けない」という常識を抱えてしまう。そうすると同様に「車」も書けない「花」も描けない「風景」も描けない、、、という風に思い込んでしまう。
実際のところは人を描く技術と車を描く技術は50%くらいは別物で、人が描けないのに車は描ける、逆に車は描けるけど人は描けない、というような人もいるのに、現実は人も描けず車も描けない、、、というような人が多い。人は否定したものに似たようなことを全て同様に否定してしまうのだ。
結論
本当は知識はアップデートするものだし、時代は移り変われば正しいことも変わる。間違っていたことも間違いじゃなくなる。
けど、30歳とかを過ぎて完全に大人になってしまった脳みそには、そんな自分の経験を否定するようなアップデートは難しくなってしまう。
それに、経験則で物事がわかるようになってしまうと、チャレンジすること自体も減ってしまう。
だから自分の知識がコンクリートのように固まってしまう前に、柔らかいうちに情報を詰め込んだり入れる情報を厳選したりして、
どうやったら30年後でも正しくやってそうな脳みそが作れるか、どうやったら30年後も役に立つ経験とか技術を得られるかっていうのを考えてやること知ることを厳選していくべきだと僕は思う。