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大乗非仏論と弁証法 その4

最終回
この章では以前問題にした大乗仏教非仏論の問題となった唯識に触れていきます。
心とは何にか?。なぜ我々は映像を見ることが出来るのか? ゆうなればそれは心の働きがなせる業であり、言葉があるからである。
大乗仏教の唯識のは現代的に言えば心であり、人間の識別判断の機能のことを指します。
そして識別判断は言葉の働きによって可能になるのです。

言葉は存在するものの代りをする働きを持っています。
識は言葉を使い、感覚したものを言葉に置き換えていくのです。これが識別判断です。

 私たちは識が機能したあとの世界にいます。実際の存在がすでに置き換えられた世界です。これが識、つまり心が映像を見るということです。映像とは実際の存在を言葉で置き換えたものなのです。

 仏教では座禅を重視します。深い瞑想に至り、感覚が静まることで、心奥にある深層の働きが表面化してくるのです。

 私たちの感覚された世界は常に言葉によって置き換われた世界にいると言いましたが、それが苦の原因なのです。

 気分が落ちつかない、すべてが悪く感じる、それは心が世界を作っているからです。苦を感じられるのは心がそのように作っているからなのです。唯識の修行者は修行のなかで心を作り替えます。それを転依といいます。そうして苦しみを無くしていくのです。そのように大乗仏教の唯識派は誕生したのです。

唯識派が説く阿頼耶識は、深層心理的な識であり、個人の存在の根本に位置します。過去の行為や経験を蓄積し、未来の行動や認識に影響を与えることで、輪廻転生のプロセスを支えます。
また、無我説と業の因果応報説の調和を図るための重要な概念でもあります。阿頼耶識の理解は、仏教の深い教えを理解するための鍵となるでしょう。

仏教は、一切の事物を縁起的に生ずると捉えます。一定の条件によって生起し、その条件が解除されれば消滅する。その一定の条件もまた他の条件によって存在しています。もし他の条件が変滅すれば、それに従って変滅する。ですから、自立し独存し永続するものは何もなく、また万物に変化しない固有の本質などなく実体というものはない。私達の目に『在る』ようにみえてようにみえているものも実体として『在る』のではない、ということです。然るに『煩悩』に覆われた私達の目は、耳は、鼻は、舌は、触覚は、そして心はそのことを正しく把握できないのです。

ではあらゆるものに本質がないという仏教になぜ阿頼耶識のような輪廻転生をイメージさせる思想があるのだろうか。それこそが無我を標榜する仏教からの変質、非仏論が出てきたのだろうと素人的に思う。

仏教の成立したインドの通念では輪廻自体はそもそも苦ではありません。あくまで苦というのは、その輪廻が老病死という現象を宿命的に含みこんでいるということなのだ。
しかし仏教は、その老病死の際限のない繰り返しが輪廻の本質だと考えることで、輪廻=苦と見るようになった。ですから、輪廻は苦ではないと考える人にとって、仏教の教えは不必要で意味のないものと映るのです。

唯識派は、過去や未来だけではなく、現在もまた実体がないと言います。では、何もかも実体を持たないのではなく、それらを生み出すベースとなる阿頼耶識という本当の実体があると言うわけです。
阿頼耶識が、過去・現在・未来を一種のバーチャル映像のように映し出していて、それを認識している自分でさえも阿頼耶識から生み出される1つの映像に過ぎない」と述べています。
阿頼耶識の概念はなかなか理解が難しいが全てに本質はないとする仏教の教義に整合させようとする一つの結論が阿頼耶識であったのだろう。輪廻転生を説かないものに宗教として存続できるものはないからである。

大乗仏教のうんだ最大の思想家に龍樹がいる。「龍樹の『空』の理論」では、ナーガールジュナこと龍樹は、釈迦の死後から700年余り後、2世紀後半から3世紀前半にかけてインドで活躍した、大乗仏教における最初にして最大の哲学者です。
その著書『中論』によって創始された中間派は、唯識派と並び、その後の大乗仏教の流れを決定的に変えました。チベット仏教や密教系はもとより、禅宗や日本の浄土系などにも多大な影響を及ぼしています。また龍樹の洗練された論理の批判的形式性は現代の西洋哲学とも相性が良く、ポストモダンをはじめとする哲学者たちの間でも、その認識論や言語論がよく話題にされている。
龍樹の中間派の特徴は、『般若経』で強調された『空』の概念をさらに徹底させ、あらゆる実体(自性)を否定し、すべての存在は無自性であると説いたことです。

唯識思想では「阿頼耶識」などの「識別作用」を、一応は「有る」ものとして、智慧に変化する基体、智慧の働きが生じる基体として示す必要が生じてしまうなど、中観思想の側からの懸念として、「阿頼耶識」などの識を実体視してしまうこと、また「真如・諸法実相」というものを実体視して肯定的に扱うことは避けなければならないと、色々と論争があったことも確かである。
結論を言えば、自然界は実体として存在せず我々の無意識に存在する阿頼耶識が作り出した自然界を見ているのだという。 自然を見て認識するのではなく認識してから自然が見えるのだという。

唯識論では、「識」は広い意味では感覚も含みます。ただしその感覚は五感だけではなく、五感+第六意識、つまり意識も入ります。この場合の意識は五感を統合するものでもあり、いわゆる意識として感じるものです。そのほかに、末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)という言葉にはならない無意識も想定していて、合わせて八識で人間を表しています。
これらが言葉以前の言葉(根源語)を紡ぎだし言葉による世界を現象化させているのです。ですから目には見えない無意識的なものながら阿頼耶識は人間の生命体として、輪廻転生の主体(真如)としてのエネルギー体そのものとして無始から存在するもの、永遠に継承されるものとして唯識思想に登場したのだろう。
大乗非仏論 その3https://note.com/rokurou0313/n/nfeb90e7ab620?from=notice


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