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病めばいいさ

 真夜中、暗がりの下、ビカビカと光る液晶画面を前に、なんと大勢の人が病んでいることか。かく言う私もそういう気質の人間で、現代病といっても過言ではないんじゃないか。

 この、病むっていうのはどういうことなんだろう。普段皆言わないようにしていることとかを言っちゃうとか、精神的に参ってるときにしか出てこないような超超超超超超超超超超悲観的なことを口走るとか。なんかそういうのが病んでいる状態だって言われてそうな気がしている。

 病むってことは治るもんだって思ってるのかもしれないけれど、私にしてみれば、そんな柔らかなものじゃないと思う。大体病んでいるときに出てくることばは、突発的に見えるかもしれないけれど、心の何処かでぼんやり思ってたからズバズバと言えるんじゃないのか。寝る前にふと、人に言われたチクチク言葉にイライラしたり、どっかで自分だけが舞い上がってたんじゃないかって考え始めたり。”普通”に生きてるときに感じ得たことが、急に脳が暴走したみたいに言語化されて出てきちゃうようなもの。

 幼いから? 大人すぎるから? 考えすぎ? 考えなさすぎ? 病む人の条件って何でもありな気がする。楽観的な人なら病まないのかと言えば、そんなことないし、悲観的な人間は病みすぎておかしいかって言われたら、いやいやむしろコントロールしているよって言えるし。そもそも気質は絶えず変化するもの。環境、状況、それで変わる私たちの気質は、病む人の条件を決めるうえでやっかいだな。

 なら、どんな人でも病むんだと考えたほうがいい。まさしく現代病。現代に生きる人は本当に苦しい気持ちを抱えている。というか、どんな時代だって生きるのが苦しいと思う。もちろん愉快なときはいつの時代もあると思うけれど、考える、想像する能力を得た私たちはいつだってそういう脳の暴走に振り回されてきたんじゃないか。

 時を経て、多くの人が個人的に、あるいは狭い範囲で病んできたのが、全世界的に共有されるようになってきたから、病むという普遍的な行為っぽいのが認知されてきたんじゃないのかな。

 言いたいのは、だからこそ静かに、みんなで病んでいこうよという話。考えすぎて不安になりすぎて周りが見えなくなる時ってめちゃくちゃ後から考えると大変な事態を招くわけだけど、病んでるときはもうどうしようもないくらい混沌としているし混乱しているわけだから、それを治すとか予防するとか考えるだけ後で辛くなるなーって。

 もうしょうがないからみんな病んじゃえばいい。それ自体悪いことじゃないし人に心配させていけ。その”人”だって大体病んだことあるはずだから。病むことが連鎖していけば、生きる辛さもそれなりに誰かの地盤になる。

 だからって全世界がpessimisticになられても困る。悲観的なことはどちらかというと冷ややかに物を見る態度だけれど、冷笑主義がなにか物事を発展させていけるエネルギーを秘めているのか? という話。病むって悲観的でも楽観的でもあるんじゃないかな。どっちかに寄ろうとしなくていいんだ、考え尽くしちゃいなよ。それで翌朝普通の顔して生きて、でもどこかで病んだ結果が影響するように自分をコントロールしていけばいいじゃないか。

 なんかそういうことを思っていた。ある木曜の夕方。お出かけにはちと寒いね。

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炉紀谷 游 Yu Rokiya
より豊かなサービス(奉仕)のために. 表現者として錯乱と残存のお手伝いをしてくれると嬉しいです.