『本は読めないものだから心配するな』
本を読むのが苦手である。
曲がりなりにも編集の仕事をしているにもかかわらずだ。
子どもの頃は図書館の本を読み漁るほどだったが、大学に入り、専門書を手に取ると、そういうわけにはいかなくなった。小説とは違ってすらすらと読めず、理解しないと先に進めないという強迫観念にかられた。
読み終えた本を入力すると「今月は何冊読みました、1日平均〇ページ」と教えてくれるアプリがあるが、専門書には向いていないと思う。一部だけ読めばいいもの、文字ばかりものからほとんど図とキャプションばかりのものまで、「読了」という概念がゆらぐからだ。
とはいえ学生時代、論文を書くためにある程度資料を読むことが必要になった。苦労しながら本を読んでいたときに出会ったのが、菅啓次郎さんのエッセイ『本は読めないものだから心配するな』(左右社、2009)だ。
印象的な一文がある。
・・・本は表紙から裏表紙まで読むもの読みたいものと考えて、その考えが災いして結局大部分の本は背表紙しか読まない結果に終わるのがつねだった。・・・(中略)・・・本に「冊」という単位はない。
(p.8)
まさにそうなのだ。山ほどの積読をかかえ、それでもパラパラめくるだけでも実になると信じて本を買う。「買う」ことは大事だ。「この本を買うだけの価値があるか」吟味することになるし、立ち読みもするだろう。買ってからは(背表紙を)何度も読み返せるし、話題に上れば「あ、その本持ってる!」と言うことができる。
背表紙しか読んでいない本が話題に上ったときには『読んでいない本について堂々と語る方法』(筑摩書房、2008)もおすすめである。中身はノウハウ本というよりは、さまざまな文学作品を引用しながら展開される読書論だが、ユニークなのは文章中に取り上げられている文献について、脚注に「どのくらい読んだか」と「良いと思ったか」が記号で示されていることだ。
「〈未〉××」(ぜんぜん読んだことのない本/ぜんぜんダメだと思った)
「〈流〉◎」(流し読みをしたことがある本/とても良いと思った)
という具合に。ぜんぜん読んでいない本だろうと、著者はなかなか手厳しい。
この2冊に出会って少し気が楽になり、相変わらず読書は苦手だが、「読了」への強迫観念は消えたように思う。読むべき本については、流し読みでも何かを得られるような読み方を心掛けるようになった。
お察しのとおり、この2冊、ほとんど読んでいないのであるが・・・。