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歯医者さんに行って治ったのは、歯だけじゃなかった。


9歳の夏、前歯を1本失った。


歯は、人の表情を決定的に印象付ける。

そう思うのは、整った白い歯でニコッと笑う人を見て「きれいだな」と、つい目がそこにいく自分が一番感じてきたことだった。


9歳の夏、停車中のトラックに顔面からぶつかって、前歯を1本失った。永久歯を失くすということが、こんなにも悲しいことなのだということは、後に分かった事だった。

「なくなったのが前歯のたった1本だけで、本当に良かったよ。今は応急処置で保険で入れられる歯を入れておいたから、大きくなって、いつか自分でもっときれいな歯にしたいと思った時に、新しい歯を作ってもらってね。」

歯医者さんに、そう言われたのを覚えている。

最初はへいちゃらだった。

治って良かったと、そう思っていた。

しかし、中学、高校と学年が上がるにつれて、作ってもらった前歯のことが、妙に気になるようになっていた。歯茎との境目が他の歯とは少し異なること。その隣の歯は生まれつきの歯並びの悪さで後ろ側に引っ込んでいること。ニコッと笑ったときに、ちょうどその前歯が見えてしまうこと。写真に残るたびに、自分の笑った顔に違和感を覚えるようになっていた。

「ニコッと笑うと歯が見える」

そう思いはじめてからは、写真を撮る瞬間に、自然と口を閉じるようになっていた。

ガラケーのうちカメで写真が撮れるようになった時にも、プリクラが盛れる時代に変わっていく間にも、スマホの加工アプリが進化して可愛い写真が撮れるようになってからも、ニコッと笑えない。目がちょっと大きくなって、肌がきれいになって、輪郭をキュッと引き締めてくれる加工でも、歯だけはそのままだった。写真を向けるとすぐにニコッと笑って写真に写る友達を見て、「羨ましいな」と思った。「私は可愛くない」と、そう思った。

「歯って、一度失うと替えがきかないんだ。」

そのことを初めて悟った。


◇◇◇



看護師になって、ご高齢の方と多く接するようになった。歯の全部が入れ歯だという人が沢山いて、1本も入れ歯が無いという人のほうが珍しい環境に身を置いた。

ある時、入院してきた患者さんに「入れ歯はありますか?」と聞くと、「全部自分の歯だ」と、ニコッと笑った方がいた。90歳だった。

「今回の入院で胃の手術をするから、胃は半分無くなるけんども、歯は全部自分の歯だ」

そう言って笑った。

本当にきれいな歯でニコッと笑うその顔は、90歳にはまるで見えない、素敵な笑顔だった。

「はちまるにーまるで表彰されたんじゃ」

そう言って、歯ブラシ、歯間ブラシ、フロスの入った巾着袋をカバンの中から出して見せてくれた。『80歳まで20本の歯を』という合言葉で、歯を手入れされてきたという。

胃の手術を無事に終え、重湯から入院食が始まった。徐々に食事が固形に変化してからも、ムシャムシャと美味しそうに噛み締めながら食べていた。「なんでも美味しく食べる。それがだいじ。」そう言いながら、熱いお茶を飲み、口をゆすぎ、歯ブラシをして、鏡を見ながら歯間ブラシをし、フロスで歯の間をキュッキュとやった。

「長い間ずっとやっていれば、もう習慣みたいなもんだ。身体に染み付く。」

そう言って、きれいな歯をニコッと見せて、元気に退院していった。

思えば、他の患者さんを見てみると、「入れ歯が合わなくて痛い」「食欲が出ない」「口の中がまずい」よくそんなことを言っている。

こんなにも美味しそうにご飯を食べて、きれいな頑丈そうな歯をみせてニコッと笑う90歳のほうが珍しい。

口の中がイキイキしていると、ご飯も美味しく感じられる。ご飯を美味しく食べることで、身体も活気付いてくる。そういうことなんだと思った。

胃も、歯も、目も、手足も、人間の身体は残念ながら替えのきかないものだらけだ。

無くしてしまったら、元には戻らない。

だからこそ大事だし、だからこそ、無くならないように手入れする必要がある。

『なくなったのが前歯のたった1本だけで、本当に良かったよ。大きくなって、いつか自分でもっときれいな歯にしたいと思った時に、新しい歯を作ってもらってね。』

あの時の歯医者さんの言葉が聞こえたような気がした。大きくなって、自分でもっときれいな歯にしたいと思った時が、今来たのだ。

90歳の患者さんの退院のお見送りをした日、私は歯医者さんの予約をした。


◇◇◇


「先生、事故でなくなった前歯が気になって。小学生の頃、歯医者さんに、応急処置で歯を入れてもらったのですが、自分でもっときれいな歯にしたいと思った時に新しい歯を作ってもらってねと言われていて、受診しました。」

レントゲンを撮って、しげしげと私の歯を見つめていた先生は言った。

「頭痛はしますか?」

えっ、と思った。

慢性の頭痛持ちで、小学生の頃から、天気が悪くなると頭が痛くなった。いつもポケットに薬を入れて持ち歩いていた。付き合っていく持病だからと、治るとか治らないとか、そういうものではないと思っていた。

「小学生の頃から。」

「肩も凝りますか?」

「はい。寒くなるとギュッと痛くなります。」

その後、歯医者さんは何やら難しい説明を、丁寧に時間をかけて話してくれた。どうやら親知らずが4本とも内側に向かって生えていること。どんどん大きくなるにつれて前歯を含めて歯並びを悪化させていたこと。歯が動くたびに噛み締めも強くなって頭痛や肩凝りを引き起こしていそうなこと。歯並びが悪くなっているところの歯石が溜まりやすいこと。

事故でなくした前歯の1本だけじゃなく、その他全部の歯について、一緒にどんな治療をしていったらいいか考えてくれた。

90歳の患者さんが、はちまるにーまるを目指してケアしていたと言っていたあの光景を思い出した。見た目が気になる1本のことだけじゃなく、80歳になっても健康な歯を20本残す。それが、今から出来る全身の健康への第一歩。


歯医者さんのアドバイスのもと、親知らずを4本抜くところから治療が始まった。

親知らずを抜いてしばらく経つと、それだけで、不思議と悪天候に見舞われても頭痛がおきる頻度が減った。

それから、ずっとニコッと笑えない原因だった、前歯の引っ込みも治すべく、歯列矯正もしてもらった。親知らずを抜いたスペースが出来て、歯を1本も抜かずに矯正が出来た。矯正の痛みはあったけれど、どんどんきれいになっていく歯列を眺める嬉しさの方が勝った。

矯正最後の日に、新しく作る前歯の型をとって貰った。頑丈でキレイな歯にするにあたり、先生はどの色がいいかということまで全部相談してくれた。

いよいよ、定期通院最後の日が来た。

「新しい歯です。」

そう言ってパカッとプラスチックのケース開けて見せてくれた歯は、ダイヤモンドの指輪かのごとく輝いて見えた。

専用の接着剤ではめて、治療は全て終了した。

鏡を見ると、キレイに整った歯の自分が写っていた。

「頑張りましたね。」

先生にそう言われた時、うまく笑えなかった幼い頃からの自分までもが、救われた気がした。


「長きに渡る治療お疲れ様でした。
治療中は仮歯や矯正ワイヤーなどでお手入れは大変だったと思いますが、無事終了出来たのも一生懸命通って頂きご協力頂いたおかげです。

治療後は歯ぎしりや噛みしめの分散が出来るようになり、治療前と比べ、むし歯や歯周病、顎関節症のリスクも下げることが出来たと思います。
今後、噛み合わせは時間と共に更に安定してくるでしょう。

是非お手入れも頑張って頂き、今の状態を維持して行きましょう。
お手入れしにくい部分やチェックは定期的なメンテナンスでフォローして行きたいと思います。」


その後、先生から、治療前後の写真が、メールとともに送られてきた。涙が出るほど嬉しかった。この歯を、80歳になるまで残そうと思った。そして、あの患者さんみたく、90歳になっても、いや、100歳になっても、ずっと大事にしようと心に決めた。



◇◇◇


「ねぇ、ニコッて笑って?」


隣にいる夫が話しかけてくる。

「ひまわりみたいな笑顔が大好き。ニコッて笑う顔が可愛い。大切。いてくれてありがとう。」

歯のうくような台詞を、言葉の限りを尽くして毎日大切に思っていることを伝えてくれる夫は、私がうまく笑えなかった過去のことは知らない。

歯医者さんに通って、治療をして、ニコッと笑って毎日を過ごす中で出会った縁だった。

結婚して、夫の身体の健康も、大切に思うようになって、夫にも、歯医者さんを勧めた。

気が付かない間に歯周病になっていたようで、また、私の次は夫の定期通院が始まった。今は、私以上に歯ブラシをし、歯間ブラシを通して、最後にフロスでキュッキュとやっている。


100歳まで夫婦円満でいられる秘訣はきっと、食卓を一緒に囲んで美味しくご飯を食べること。


そんな未来を楽しみに待つかのように、洗面台には今日も2人分のデンタルケア用品が、仲良く並んでいる。


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