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『蟹工船』小林多喜二 感想

こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

秋田で貧しい小作農を営んでいた両親のもとで、小林多喜二(1903-1933)は生まれました。伯父が小樽で工場などの事業を成功させると、彼が苦労を掛けていた多喜二の両親に安定した生活を提供するために小樽へと招きます。移り住んだ四歳の多喜二は、伯父の工場に勤めながら商業学校へと進みます。この頃に志賀直哉の作品に触れて耽溺し、彼の持つ文芸性を大きく刺激して、多喜二は積極的に自ら執筆を行っていきます。傾倒していた志賀直哉の影響を受けながら、労働運動を含めたプロレタリア文学の思想が、多喜二のなかで心の中心を占め始めます。

1925年に結成された「日本プロレタリア文芸連盟」は、プロレタリア文学において活動する作家を取りまとめるもので、「文芸戦線」を中心に作品を発表していました。のちに連盟内で方向性の違いもあり、1926年に「日本プロレタリア芸術連盟」として再編成されましたが、思想や作風は変わることなく執筆活動を進めていました。ところが、1927年に鹿地亘による論文によって、プロレタリア文学は芸術を「大衆への進軍ラッパ」にしているという批判を与えます。連盟内ではこの批判によって対立がおこり、葉山嘉樹、蔵原惟人、黒島伝治らが脱退します。しかし、この脱退した者たちで新たに「労農芸術家連盟」を組織し、別のプロレタリア文学団体として活動を続けました。このプロレタリア文学作家たちの分裂は全国にも衝撃を与え、各地で個別に活動していたプロレタリア文学作家たちは、より賛同できる組織へと参加していきます。そして、小林多喜二は「労農芸術家連盟」に加わります。


1904年の日露戦争、1914年の第一次世界大戦争、1923年の関東大震災と、連続した災禍により日本国内では貧困と困難に埋もれていました。日露戦争ではポーツマス条約により「賠償金の無い終戦」となり、軍需捻出のために苦しめられた国民には、終戦後も何も残らない状態となりました。第一次世界大戦争での軍事利益は国民には渡らず、家族だけが兵に取られるという事態にありました。このように国民が苦しむ環境のなか、1917年におこったロシア革命の影響が日本にも流れ込み、共産主義運動がやがて活発化していきます。一部の階層によって行われる土地や資本の占有(私有財産制)や君主制そのものを否定するこの運動は、政府は国民が自分たちに楯突く行動であるとして弾圧を強化していきました。内閣は1925年に「治安維持法」を制定し、私有財産の否定や国体の変革を「罪」と定め、「政府の判断」で共産主義者を自由に投獄し処罰を与えることをできるようにしました。「治安維持法」が成立すると、政府はすぐさま共産主義者の一斉検挙を行います。日本共産党(非合法)、労働農民党といった政治団体や活動組織が一斉捜査を受け、多くの行方不明者、亡命者、逮捕者を生み出し、約500人が検束されました。これが「三・一五事件」です。そして、小樽での一斉検挙を取材して題材にした『一九二八年三月十五日』を小林多喜二は発表し、作家としての第一歩を見せました。作中での特別高等警察による拷問描写は非常に生々しく、読者へ大きな反響を与えたとともに、特別高等警察には強い反感を与えました。次いで1929年に本作『蟹工船』を発表し、プロレタリア文学作家たちの代表的な存在として文壇に確立しました。


しかし、これらの執筆活動によって勤めていた北海道拓殖銀行は解雇され、特別高等警察にはより厳しく行動を監視されることになります。そこから多喜二は小樽を後にして上京し、日本プロレタリア作家同盟に加入して、役員として迎え入れられました。多喜二は、プロレタリア文学作家としての思想が一層に強まり、また特別高等警察と敵対していたこともあり、1931年に目的を同じくする非合法の日本共産党へ入党しました。1932年には、右翼テロリスト(血盟団など)の政治家暗殺事件が起き、(国にとっての)危険思想をもつ者へ厳しい弾圧が始まったことで、多喜二は地下生活を余儀なくされました。


その日、連絡から帰ってくると、隣りの町で巡査が戸籍名簿をもって小さい店家に寄っていた。ところが、そこから一町と来ないうちに、同じ町なのに今度は二人の巡査が戸籍名簿を持って小路から出てきた。私はSに会ったとき、朝の戸籍調べのことを話したら、全市を挙げてつぶしに素人下宿の調査をしているらしいから気を付けないといけないと云った。

小林多喜二『党生活者』


労働者の置かれた「搾取される立場」を、社会根底から覆すために党活動で活躍していた多喜二でしたが、特別高等警察の潜入捜査によって罠に掛けられ、待ち伏せを受けて捕えられました。特別高等警察は多喜二の作品描写や活躍に激しい反感を持っていたことで、「取調べ」という名の拷問を与えます。寒中で丸裸にし、太い折檻棒で何度も殴り掛かります。前歯は折れ、手の指は反対側に曲がり、下半身を釘出し棒で滅茶苦茶に叩きつけ、赤黒く三倍にも膨れ上がらせました。警察の虐待によって殺された多喜二は留置所で母親と再開しました。その後、この凄惨な所業を警察は死因を「心臓麻痺」と発表し、「何の手落ちもなかった」と公に白を切り通しました。


多喜二が目指した「労働者を搾取する資本家が優位である社会構造の根底変革」は、彼の作品に直接的な思想として込められています。大正デモクラシーを経て共産主義運動、そして地下活動へと変遷したことに合わせ、白樺派などに見られる人道主義文学はやがてプロレタリア文学へと明確に姿を変えました。多喜二は、前述したとおりに志賀直哉から強く影響を受けていました。執筆の方法や描写の模倣から始まり、やがて志賀の内面から溢れるリアリズム、つまり自我の肯定と要求を真実の人格として表す手段を、多喜二自身も作品で表現することを心掛けました。志賀が内面的な個人主義の思想に基づいていたことに対し、多喜二は共産主義の思想であったことで、完成されたプロレタリア文学が「個人を尊重する社会」を描いているという点が、二人の大きな特徴的差異であると言えます。そして、多喜二が発表した『一九二八年三月十五日』、『蟹工船』、『不在地主』などは、他のプロレタリア文学作家たちを奮い立たせるように、思想として、また文学として、その活動を牽引していきました。


本作『蟹工船』は、多喜二の徹底した取材によって明らかにされた事実をもとに執筆されました。漁業労働組合員や実際に乗船していた漁夫や雑夫、さらには地方の新聞記事や漁港に集う人々から、蟹工船の詳しい航海の状況を聞き出しました。作中の監督が他船を見殺しにする場面や、監督が雑夫を虐げる場面などは、実際に起こった出来事です。

「蟹工船」とは、蟹缶詰船上製造工場と言えるもので、大型の船から小型船を出して蟹漁を行い、収穫したものを大型船上に積み込んですぐに加工、それをその場で缶詰に仕上げるという目的のものでした。日露戦争の頃から蟹工船事業は大きくなり、ロシア漁区を獲得するとカムチャッカ半島周辺を中心に稼働していました。そしてこの缶詰は、イギリスやアメリカで大変に好評であったため、輸出品目としては儲けの種となっていました。多くの資本家は、戦争で使用された船を使い回しで蟹工船へと修繕し、地方の貧しい出稼ぎ労働者を船に積み込み、奴隷のように雑夫として扱いました。というのも、蟹工船は海上に浮かぶ孤島と言えるもので、法規などは一切存在せず、「監督」(資本家から雇われた事業責任者)の一存で全てが取り決められていたため、恫喝や打擲など、誰にも止めることが許されず、なされるがままに労働者は従わされていました。


監獄でさえ比べ物にならないという証言があるほど、監督責任者たちの残虐行為は酷いものでした。雑夫たちは、虱や南京虫が蔓延る雑居房のような「糞壺」と呼ばれる寝床に、一日三時間という短い睡眠時間と、凍える嵐のなかを防寒具も無く外に出て作業をさせられるという、非常に過酷な環境で働かされていました。そのようななか、当然のように病に臥した雑夫を見て、監督は「仮病だ!」と怒鳴って鉄柱に括り付け、胸に「この者仮病につき縄を解く事を禁ず」とボール紙に書いたものを結び付けて、食事も与えずに虐待しました。他の「仮病だ!」と決めつけられた雑夫は、場外のウィンチに吊るされ、監督は「こうして一般の見せしめにするのだ」と嘲笑して虐待しました。常に棍棒やハンマーといった凶器を携えて現場を動き回り、政府や海軍には散々にもてなして歓待し、豪華な食事と毎日の風呂で、監督は王のように豪遊して君臨していました。


国も軍も守ってくれず、家族は遠く、仲間は死の淵にあり、神にも仏にも見放されたような過酷な労働環境で、雑夫たちは自らの僅かな生命を、蝋燭の火を守るように身体を小さくして過ごしていました。しかし、彼らはこの労働環境によって「少しずつ殺されている」ということに気付きます。これにより、労働者は自分たちの労働力やそれによる利潤だけではなく、労働者自身の生命さえも搾取しているのだと理解し、ついに抵抗を見せました。それまでは監督の振りかざす棍棒に恐れて全力で働いていましたが、自発的に労働の熱量を減らしてサボタージュを始めていきます。監督は労働者が手を休めていないのに、生産高が目に見えて減少することに狼狽します。そして一致団結した労働者たちは「組織」となって、この窮状を打開すべく、王のように君臨していた監督や資本家に反旗を翻しました。


──何時でも会社は漁夫を雇うのに細心の注意を払った。募集地の村長さんや、署長さんに頼んで「模範青年」を連れてくる。労働組合などに関心のない、云いなりになる労働者を選ぶ。「抜け目なく」万事好都合に! 然し、蟹工船の「仕事」は、今では丁度逆に、それ等の労働者を団結組織させようとしていた。いくら「抜け目のない」資本家でも、この不思議な行方までには気付いていなかった。それは、皮肉にも、未組織の労働者、手のつけられない「飲んだくれ」労働者をワザワザ集めて、団結することを教えてくれているようなものだった。


この蟹工船内の環境は、当時の権力者と労働者の縮図として描かれ、国民に対して「生命までも搾取されている」ことを多喜二は伝えようとしました。実際に蟹漁だけでなく、北海道の開拓移民を筆頭とする百姓たちも壮絶な搾取を受けていました。全国に配布された「北海道移住手引草」は、各地で地主に縛り付けられて農奴と化している人々に「数年で自分の農地が手に入る」という謳い文句をもって百姓を北海道に呼び寄せました。遠路はるばるではありましたが、苦しい環境から逃れたい一心で開拓すべき地を目指します。ようやく辿り着いた土地は殆ど原生林とも言える状態で、鍬や鋤を使う以前に木を倒すことから始めなければなりませんでした。支給された鍬や鋤はすぐに壊れて使えず、切り倒した木は薪にして売り、熊や狐が彷徨くなかを一日中働き詰めで過ごしました。「三年で五町歩」を耕せば自分の土地になるという約束も、実際はとんでもない苦労を必要とするものでした。さらに、開墾に必要な農具、小屋の建設費、渡航費、生活に必要な灯油費など、膨大な費用が嵩み、百姓の生活は一層に苦しくなっていきました。初年度で一町歩を耕すのが精一杯でしたが、それでも約束の五町歩を耕すものはいました。しかし、膨大に嵩んだ借金や開墾の状態を理由に「土地は与えられず」、地主による農奴的支配が継続されていきました。農業だけでは生活ができないため、山の開拓労働や都市の工場へ出稼ぎに向かう者もありました。このような背景の資本家による搾取を、多喜二は『防雪林』や『不在地主』で描いています。


──百姓は心の何処かで、自分でも分らずに「来世」のことを考えている。──長い間の生活があんまり「苦し」過ぎていた、それがそして何時になったって、どうにもなるものじゃなかった。──あの世に行きさえすれば、年を取ってくれば、もうそれしか考えられない。

小林多喜二『不在地主』


日本という国家が「資本家と結びついている」以上、搾取される人間に救いはありませんでした。資本家は、雑夫や百姓の「生命を削った労働力」を自らの利益に変え、悠々自適の生活を送ります。この資本主義の在り方を「国家」が正しいとするのであれば、雑夫や百姓は「人間として生きることを否定」されているのであり、それは許されるはずがないと多喜二は断じています。非合法の共産党で地下活動を続けていた多喜二は、資本家の盾と警察の暴力に守られる国家を変えようとしました。その思想が、『蟹工船』を通して伝わってきます。プロレタリア文学の代表作と言われる本作からは、多喜二と国民の苦悩が強く響いてきます。未読の方はぜひ、読んでみて、感じてみてください。
では。


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