『フーコーの振り子』ウンベルト・エーコ 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
1980年に発表した『薔薇の名前』で一躍イタリア文壇の頂点に到達した記号学者であるウンベルト・エーコ(1932-2016)。世に衝撃を与えたのち八年を経て、彼は本作『フーコーの振り子』を発表しました。
中世における美学の研究において、エーコは理論と実践の区別について重視しました。過去の時代に存在した「幾何学的合理性のある何が美であるべきかの解答的概念」と、「弁証法的な形相と内包」の交わりに焦点を当てていました。中世遺物に見られる整った造型に組み込まれた美術的表現の合理性には、理論(理屈)的に証明される美としての合理性が含まれているという考えです。しかし、この視点での研究からエーコは焦点を変え、テクストを元にした記号論について思考を発展させていきました。「真の文学におけるテクストは、文章が意味を持つのではなく、文章が意味の領域である。そして意味の領域には書き手の精神的断片が込められている。」このように語るエーコは文学を、読者の持つ潜在的な読解力や審美眼を開かせるテクストこそが必要であり、端的で明瞭な言葉で綴られたものは文学たり得ないと断じています。文章に誤りが無くとも、文脈として生命を持っていなければ、それは単なる語彙の羅列であり、文学的価値は見られないという表現です。中世美術の言語化や理論化を経て、記号論として芸術性を文学に視点を当てた彼は、自らの手で文学作品『薔薇の名前』を発表しました。
本作『フーコーの振り子』は正に彼の系譜と言える作品で、娯楽としてのフィクションとは一線を画す現実と虚構が綯交ぜとなった複雑な小説です。主要素となるテンプル騎士団をはじめとして、カバラ、親ナチス、中世貴族、フリーメーソンなどを、寄せ集めのオカルティズムではなく、一本の関連性を見せた整合性のある物語へと昇華させています。歴史が辿るように、神話、聖書、古典、ルネサンスに触れた過去の出来事や遺物がすべてテンプル騎士団へと収束されるように運ぶ彼の筆致は、そこに曖昧さは見られず断定的に進められ真実が浮かび上がっていくように感じます。それを構築する膨大なエーコの知識と理解は読者を惹きつけ、振り子を眺めるように物語に吸い込まれていきます。そして、作中で繰り広げられる魔術的儀式の緊張感や、危機的状況の焦燥感が彼の文章が「裏付ける」ように文学の領域へと没入させていきます。
舞台は1970-80年代のイタリア、フランス、南米で、学生運動が盛んに行われていた時代です。語り手のカゾボンは学生でテンプル騎士団の論文を書いていましたが、その詳細な内容と熱意に惹かれたガラモン出版社に勤めるベルボとディオタッレーヴィは、彼を出版編集の手伝いに誘います。意気投合した三人は公私に渡って行動を共にするようになりますが、あるとき原稿を持ち込んだ一人の「騎士」アルデンティとの出会いによって彼らの運命が大きく動き始めます。その原稿にはテンプル騎士団が秘密裏に進めているという数百年越しの計画について書かれており、それを裏付ける手紙も同時に持ち込まれました。地球規模の壮大な計画に関わる地下に潜む「騎士たち」を炙り出すために、この研究書を出版したいというアルデンティの要望でした。彼らは自費での出版を促したところ、彼は憤慨して出ていきましたが持ち込まれた手紙は残されていました。彼ら三人は真偽のほどは不明でしたが、テンプル騎士団が立案したという「計画」に強く興味を持ち、自らでその計画を浮き彫りにさせようと取り組み始めます。手紙を発端に、イェルサレム、十字軍、ローゼンクロイツ、歴史に明るみとなった出来事や噂話、与太話や誇張など、徹底して閃きを共有し合って計画を浮き彫りにするように構築していきます。この仕事を仕上げるために専門家の力を借りることになりましたが、そこで神秘的で不可解な人物サン・ジェルマン伯爵と出会います。そしてこの「でっちあげによるこじつけの」計画が、テンプル騎士団の意思を汲む地下組織に察知されて物語が動き出していきます。
本作は、ユダヤの神秘思想カバラにおける世界創世の象徴である「セフィロト」の構造を基にして構成されています。十のセフィラを要素として天地創造を図式化したもので、進行順に、ケテル(根源)、ホフマー(知識)、ビナー(理解)、ヘセド(慈悲)、ゲブラー(峻厳)、ティフェレト(美と調和)、ネツァー(抵抗と忍耐)、ホド (威厳、栄光)、イェソド(基盤)、マルクート(無知の王国)と連なります。
その構成を辿る主軸が三人によるテンプル騎士団についての考察であり、計画の構築です。テンプル騎士団は、ドイツ騎士団やヨハネ騎士団とならぶ宗教的騎士団の一つでした。フランスからイェルサレムへの巡礼路を警護する目的で創設されましたが、当時のイェルサレム王国からこの騎士団に対して宿舎としてソロモン神殿跡を与えられたことから公な存在となりました。また、ローマ教皇からも貧しきながらも信仰深いテンプル騎士修道会として認められたため、これをきっかけにヨーロッパ全土において力と富を築いていきました。テンプル騎士団は各地に支部を設け、与えられた元手となる財産を活かして金融機関として勢力を拡大し、フランス国家の財政を左右するほどに権力を持ち始めました。当時のフランス国王フィリップ四世は「王権に対する障害」と「騎士団の持つ財産の没収」を目的として理不尽な異端審問会を開き、偽りの罪を「でっちあげて」、騎士団長ジャック・ド・モレーをはじめとして殆どの騎士を強引に処断し、その騎士団を力づくで破壊しました。そして金融機関として活動した莫大な財産はフィリップ四世が掻っ攫ってしまいました。この財産の回収とフランス国王への復讐という目的の地下組織が現存し、三人が生み出した「でっちあげ」の計画に目を付けて襲い掛かるという内容です。
本作でエーコは、歴史における虚偽や嘘と、神的な力の及ぶ絶対的な出来事との、境界線を見極めるような真実の追求と皮肉を表現しています。地下組織やオカルティズムの持つ不穏と絶対が混ざり合う不気味な空気と、貴族やブルジョワが持つ名誉や称号の贅沢な空気とを、どこに差異があり真実があるのかということに関して、悪魔主義には偏らない否定主義と言える技法を持って読者に提示しています。特に錬金術の記述では顕著であり、絶対と不可能の狭間を出来事に重ね合わせて理屈を合わせるように描いています。この過去の歴史的出来事の積み重ねは、巨大な神話を築く機械の部品ひとつ一つに当てはめられ、カゾボンたちによって神の手による歴史の再構築を行っている錯覚をおぼえます。そしてこの構築手順はセフィロトの進行に準えられており、カゾボンたちが悪ふざけから始めた取り組みに、やがて真剣に神的な意思を持ち始めている点にも狂気を感じさせられます。この計画の辿り着く地点がパリ国立工芸院に存在する「フーコーの振り子」であり、ベルボの始まりと終わりの象徴であることも劇的な巡り合わせであり、天啓的な印象を与えます。
このような冒涜とも言える神の真似事によって作り上げた「計画」は、オカルティズムに溢れたサン・ジェルマン伯爵が率いる組織の狂気を直接的に受け止めることになります。生命の危険を突きつけられて「ある筈のない真実」を吐露せよという脅迫は、ベルボの神の領域にまで高められた意識には及ぶことなく、「全てを真実として存在させるために」ベルボは決して明かしません。幻想(虚偽)を存在させるための手法は、愚かでありながらも説得性を持たせており、ベルボの生涯の出来事までが符合して、不穏な騎士団の生き残りを軽蔑し続けます。エーコが語る「生み出したテクストは現存する」という考えを裏付けるような最後の場面は、息を呑みながらも哀愁溢れるものとして描かれています。また、それは本作そのものにも当てはまり、歴史的真実と虚偽と噂話とこじつけが混在して構築された物語には、読者の意識を何が真実かではなく、「何が存在しているのか」という方面へと導き、真偽以上の存在を渇望する意識を与える効果を持っています。そして、書かれた言葉には真偽以上の信憑性が備わっており、「すべてがそこにある」という神的な力を見せつけています。
エーコは『フーコーの振り子』において、現実に蔓延る陰謀論やオカルティズムを壮大に嘲笑していると見ることもできます。陰謀などいくらでもこじつけられる、数字と言葉の組み合わせはいくらでも繋ぎ合わせることができる、このように諷刺しながら多くの偏執的妄想者たちを揶揄しています。しかし、このような陰謀論に振り回されているのは個人の問題ではなく国家レベルで横行されており、世界が無秩序に流されているという点も表現しています。信仰と地下組織は陰謀という手綱によって繋ぎ合わされ、歴史的出来事と噂話はこじつけによって繋ぎ合わされます。イエズス会、フリーメーソン、ファシズム、オカルティズム、クーデター、秘密結社など、現在の世界でも存在しながら人々の感情を揺さぶり続けるものに対して、エーコは本作で対抗的な姿勢を見せていると受け止めることができます。
大きく物語が進展する場面は少ないですが、エーコの膨大な知識量と、点と点が繋ぎ合わさる場面は目を見張るものがあります。ウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』、未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。