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『神々自身』アイザック・アシモフ 感想

こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

西暦2070年、タングステンと交換に〈平行宇宙〉からプルトニウム186がもたらされることが判明した。われわれの宇宙に存在しないこの物質は、無公害で低コスト、しかも無尽蔵のエネルギー源として歓迎され、両宇宙をエレクトロン・ポンプでつないでのエネルギー交換が実施された。だがこの魅力的な取引には、恐るべき陥穽が隠されていた……SF界の巨匠が満を持して放ち、ヒューゴー、ネビュラ両賞受賞に輝いた最高傑作


第二次世界大戦争、化学と戦争の結びつき、サイエンス・フィクションの世界が現実となった脅威、また戦禍により広がる荒廃と被害の恐怖、全体主義やファシズムに対する厭悪、これらが刺激となって戦後のSF作品が狭いエンターテイメントジャンルから、一つの文学的分類へと広まっていきました。それまで非現実を描いた異世界としての認識であったものが、リアリスティックな科学の世界へと変化した認識は、作家が主義、思想、諷刺、揶揄などを強く込めた作品を多く生み出していきます。このような戦後から1960年ごろまで続くサイエンス・フィクション隆盛の時代に、作風は戦前から大きく変わっていき、破壊や滅亡を多く描く社会諷刺の作品が見られました。ジョージ・オーウェル『一九八四年』、レイ・ブラッドベリ『華氏451度』などが挙げられます。


多くの作家、そして作品がサイエンス・フィクションというジャンルのなかで生まれた慌ただしい時代ですが、この中でも特筆すべき「ビッグ3」と呼ばれる作家がいます。豊富な化学的知識を用いてリアリスティックな世界を描いたアーサー・チャールズ・クラーク、サイエンス・フィクションというジャンルを文学的に向上させようと試みたロバート・アンスン・ハインライン、著作は500冊を超えて科学に縛られず歴史や言語学なども手掛けていたアイザック・アシモフ(1920-1992)。この三人の活躍によって訪れた「真のSF黄金時代」は、それまでの常識や風潮を刷新し、新たな定義をもたらすほどの改革的な変化を遂げます。特に、アシモフによる短篇『われはロボット』で提示された三原則はあまりにも有名です。


しかし、作風が変化したサイエンス・フィクションの作品群は、過激さだけが膨らみ始め、読書に倦怠的な印象を与え始めます。この流れからの脱却をジェイムズ・グレアム・バラードを皮切りに、1960年ごろからイギリスを中心とした「ニュー・ウェーブ」というSFの運動が始まります。視点を外宇宙ではなく内宇宙(インナースペース)へと移して描き出す作風は、他の文学ジャンルから影響を受け、サイエンス・フィクションは融合して文芸性を帯びたものへと変化していきました。また、その動きはアメリカにも派生して、サイエンス・フィクション誌『ギャラクシィ』が中心となって、SFニュー・ウェーブを隆盛させていきます。フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』などは、この時代のものと言えます。


このようなSFニュー・ウェーブ、外宇宙から内宇宙への視点変更に対して、ビッグ3の一人であるアシモフは、新たな波を描くことができるのか、といった挑発的な声を受けて執筆に取り掛かります。そしてちょうどこの頃に、友人のSF作家ロバート・シルヴァーバーグが討論の場で口にした存在しない物質「プルトニウム186」をアイデアの種に置いて、作品を創造していきました。それが本作『神々自身』です。


『神々自身』は、フリードリヒ・フォン・シラーの戯曲『オルレアンの少女』から引用された、三部作で構成されています。二十一世紀の後半、人類はパラ宇宙(パラレル・ユニバース)とエネルギーを交換するという技術を身に付けました。地球で手に入りやすいタングステン186と、脅威的なエネルギーを得ることができるプルトニウム186の交換は、人類の希望ともなり、活動に必要なエネルギーを全て補うことができるという夢のような資源でした。この交換を成す「エレクトロン・ポンプ」という設備を作り上げたフレデリック・ハラムは、物理学者の頂点に立ち、全ての権威を自在に操っていました。しかし、優秀なピーター・ラモントという青年が、パラ宇宙とエレクトロン・ポンプの研究を進めていくと、真に優れた技術を持っている者はパラ人(パラレル・宇宙人)であり、地球の存在はパラ宇宙にとって資源供給の傀儡に過ぎないことを突き止めます。そして、このエネルギー交換には地球側の宇宙を滅亡させる危機があることを推測しました。その行為にハラムは激しく憤り、ラモントを物理学界において行き場が無いように追い詰めます。それでも研究を続けるラモントは言語学者と協力して、パラ人とのメッセージ交換を果たします。そこには、ラモントの望みを打ち砕くものが書かれていました。ここまでが第一部です。


第二部は、パラ宇宙側の世界を描きます。性別が三種ある軟属と、交配を一切行わない硬属が存在する世界で、地球側の宇宙に比べるとはるかに規模が小さなものとなっています。ヒダリ配偶子である理性子オディーン、ミギ配偶子である親性子トリット、そして感性子デュアによる軟属三者のパートナー的な関係性は、一組の夫婦(三者ですが)をイメージさせられます。彼らの「融交」という繁殖行為に該当する行いは、それぞれが気化(のような原子の分散)して交わり合うというもので、強烈な快楽を伴い、子を授かる可能性を持っています。理性、本能、感情と、三者それぞれの特徴的な性格によって、この「融交」の捉え方もさまざまです。パラ宇宙における家族の概念は、理性子、親性子、感性子を子供として儲けると、親の三者は「終熄」しなければなりません。これを避けたいと願うデュアと、全ての子をもうけることが望みのトリットは、「融交」を巡って諍いを起こします。その問題と並行して、硬属が別の宇宙(地球側の宇宙)とエネルギー交換を成功させて、そのエネルギーに依存した生活を過ごしていました。しかし、この交換には別の宇宙の消滅が予測されていながらも、パラ宇宙側には危険が少ないことから継続して使用されていました。この問題に心を痛めたデュアは、別の宇宙へ危険を伝えようとメッセージを送ります。そして、この問題と硬属の「無融交」の謎が絡み合い、一挙に謎が明かされて第二部を終えます。


第三部では再び地球側の宇宙へと戻ります。ハラムがプルトニウム186(にタングステン186がいつの間にか変化していたこと)を発見したとき、優位な立場にありながらこの事実で業界から追いやられたベンジャミン・アラン・デニソンが中心人物として登場します。彼はエレクトロン・ポンプによって支配されている地球上から逃れるため、半世紀以上も経過している切り拓かれた月の世界へと訪れました。魅力的なルナ人(月の住人)セルニ・リンドストロムと出会い、月のエネルギー源となっている「プロトン・シンクロトン」について調べ始めます。この月のエネルギー処理に関する技術を活かして、デニソンは画期的なシステムの構造を思い描きます。これは現在置かれている地球側の宇宙の危機を、コズミック・エッグという別の宇宙(反パラ宇宙)を利用して切り抜けるというものでした。地球側の宇宙とパラ宇宙によって生まれている「負の作用エネルギー」を、反パラ宇宙へと逃がすようなイメージです。そしてこの構想を実現させるためにはラモントの協力とセルニの協力が必要です。そして物語は痛快な展開を見せて見事に収束します。


本作で特に強い印象を持っているのが、第二部のパラ人による融交描写です。それまで性的な描写は殆ど取り入れなかったアシモフにとって大きな取り組みであり、当時においては衝撃的なことでした。詳細に綴られる性行為での感情や、事細かな動きの描写は、非常にエロティックでありながら、融交自体が人間の行為とかけ離れているため、卑猥さが全く感じられません。しかし、エクスタシーの感情や度合いが見事な筆致で伝わり、「それほどまでの快感であろう」という他種の性行為としての冷静な受け取り方ができるという点で、三者がどれほどその行為から逃れられないのか、ということを伝えてきます。また、その融交の果てが「融合」となるという仕掛けも、見事としか言いようがありません。


三部作という複合的な構造は、空間的視野と時間的視野とを自然に融合、連結させて、整合性の取れた世界を構築しています。また、地球側の宇宙、パラ宇宙の描き方が不自然な橋渡しを必要とせず、独立させているからこその自然さを演出しています。実際に、第二部は独立して雑誌に連載されていたという背景もあり、敢えて世界観を断裂させているとも言えます。

本作の結末は「反終幕」と言えます。掲げられた問題や危機を如何に乗り越えるか、如何に打ち砕くか、といった目線ではなく、危機を如何に解消するかの一点に絞り、問題解決を放棄するという当時において新たな手法で描き切っています。このあたりにSFニュー・ウェーブの香りが漂い、反滅亡、反過剰、反破壊、反虚無、反達観と言った要素を上手く取り入れていると言えます。


こりゃ阿呆、貴樣に負けて己は滅びるのか!
阿呆を相手にしては、神々にさへ勝目はない。
智慧の神パラス・アテネは、大神の頭から
光り輝いて生れ出て、この世界の結構を
築き上げ、星の針路を定めた賢い女神だといふが、
迷信といふ狂ひ馬の尻尾に結へられ、
ひいひいと吠えながら、血迷ひ者の道連になって、
みすみす崖の下に轉げ落ちなければならぬなら、
いったい何の役に立つのだ!
偉大なもの、尊󠄁貴なものに命を捧げて、
賢い心でぬかりのない計をめぐらす者は
詛はれろ!この世は
阿呆の王の持物だ。──

フリードリヒ・シルレル『オルレアンの少女』


章題に現れるフリードリヒ・フォン・シラー『オルレアンの少女』の引用も、非常に効果的に用いられています。

百年戦争後半、獲得したはずのランスを失った後、パリまでも失ったという報せを受けたイギリスの総大将タルボットが、忌々しさと絶望から発した台詞です。真に理知的な彼は、「ジャンヌ・ダルクの奇跡」という迷信を間に受けて兵達が戦場から逃走するという事実に、呑み込まれるように戦況を覆され、自らも破滅へと導かれることを激しく嘆いています。フランスに侵攻し、連戦連勝でオルレアンへと辿り着きましたが、ジャンヌの出現から負け戦が度重なり、そして今この場で自らの死を迎えているという状況を受け入れることなど到底できず、呪いの言葉が止みません。「利権」に固執し、ジャンヌが演出した「奇跡」を悉く受け入れ、またその事象を真に受けた人々の逃避と迎合によって、イギリスの勝利が次々とフランスのものとなった戦いは、真実に目を背けた愚者たちによって被られ、真実を見据え続けたタルボットは破滅するという、不条理的な感情が強く伝わる場面です。この、利権を守って真実を見ない愚者(ハラムおよび物理学界)と反対する人物たち(デニソン、ラモントなど)の戦いを重ね合わせ、作品の題名や章題に引用されています。


1972 年に出版された本作は、同年のネビュラ賞を受賞し、翌年のヒューゴー賞を受賞しました。アシモフは自身の力量を充分見せつけると同時に、素晴らしい栄冠をも手にしました。その発端となった「プルトニウム186」という小さなアイデアの種をここまでの大作に成し得たのは、彼の持つ膨大な知識量と執筆の技量、そして挑発に対抗する強いエネルギーであったことを考えると、面白くも素晴らしく感じます。サイエンス・フィクションではありますが、人間同士の感情の動きが多く描かれており、非常に読み進めやすい作品です。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。


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