白夜の海 Episode 3 【#シロクマ文芸部】
こんばんは、樹立夏と申します。今週も小説を書けました。
生きづらさを抱えた少女と青年の物語を書いています。
もしよろしければ、お付き合いください。
過去のお話は、このマガジンに収録しています。
始まりは、必ず終わりへとつながっている。六月二十一日金曜日。夏至の太陽を、雨雲が覆い隠している。教室の窓を流れる雨滴を、ぼんやりとした目で、ただ追っていた。遠くに稲光が見えた。この梅雨空のように、気持ちはどんよりと落ち込む。二週間前の日曜日から、奏汰は図書館に来なくなった。世界が、色を失っていく。
帰り際、学校の図書室に寄った。奏汰が好きだと言っていた本を探す。
——塩狩峠。
『俺、宗教とか、よくわかんないんだけど。でも、人間って、変われるんだと思った。まず、文章が綺麗なんだ。あと、自然の描写が……』
み、み。三浦綾子。書棚をくまなく探す。「氷点」、「泥流地帯」……。「塩狩峠」は、見つからなかった。肩の力が抜けた。私の指は、奏汰の痕跡を攫おうとしている。それがどんなに微かなものであっても。
「眞子、まだ残ってたんだ」
唯一の友人、同じ中等科三年の野木美夕が、図書室の入口に立って、私を見つめていた。美夕のお父さんは、某有名食品メーカーの社長だ。美夕は、月のお小遣いを十万円以上もらっていると言っていたが、あからさまにブランド品をちらつかせたりしない。本物のお金持ちは、意外と質素なのだ。
「ちょっと、本を探してて」
「眞子が本? 画集じゃなくて? 誰の?」
「三浦綾子の、『塩狩峠』」
「ああ、キリスト教の授業で、先生が薦めてた本ね」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
聖ミハイル女学院には、キリスト教の授業がある。キリスト教の授業の時は、いつも数学の問題集を解いていた。
「眞子、最近なんか変わった」
「え?」
「ぼーっとして、ため息ばっかりついて。好きな人、いるんでしょ」
「いや……」
「白状しちゃいなよ。他校でしょ? どこの人?」
美夕は、腰まである艶やかな黒髪を手で梳き、悪戯っぽく目をくるくると動かした。
「そんなことないよ」
「本当に? 眞子のお父さんには黙っといてあげるから、私にだけは教えてよね」
美夕のお父さんと私のお父さんは、時々会食をする仲だ。お互いにハイクラスな家庭とつながることで、世間を見下したいのかもしれない。
「ええと。毎週図書館で会ってた人が、来なくなっちゃって」
美夕の瞳が輝き、大きく見開かれた。
「うそー! やっぱりいるんじゃん! どこの学校? 学年は?」
「南高の、三年だって」
「年上かあ! 南高ってさ、公立にしては偏差値高いよね。一緒に帰ったりとかしてんの?」
「ああ、その人、定時制で」
「ええ? 定時制?」
美夕は、大袈裟に見えるほど、がっくりと肩を落とした。
「ちょっとその人大丈夫? 悪い仲間と付き合いがあったりしない?」
美夕も、お母さんみたいなことを言うのか。最低だ。悪質な差別じゃないか。
「大丈夫だよ。そもそもそんな深い付き合いないし」
美夕は口元だけで笑った。
「でもそれさ、眞子のお父さんにばれたら大変なことになるよね」
「美夕。絶対誰にも言わないで」
「わかってるって」
美夕と校門で別れ、私は駅に向かった。「塩狩峠」への未練は消えない。お父さんは私が今どこにいるか、把握している。少しだけなら、通学ルート上なら、寄り道をしてもいいだろう。駅の中にある書店に寄ることにした。急いで「塩狩峠」を探す。あった。見つけた。扉を開くと、言葉が目に飛び込んできた。
一粒の麦、死。急に怖くなった。奏汰が、いなくなってしまうような気がした。動悸がする。震える手で本を棚に戻した。奏汰は今、どこにいるのだろう。
もしかしたら。
私は踵を返すと、改札へと向かった。家の方角とは逆方向の列車に乗り込み、白熊図書館を目指す。電車を降りると、雨が強くなっていた。雨傘を叩きつける雨滴のリズムが、私の動悸をかき消す。自然と急ぎ足になり、それでももどかしくなって、私は走り始めた。
図書館裏のベンチに、ビニール傘をさして、奏汰が一人、座っていた。グレーのパーカーに、深い紺色のジーンズ姿で、傘越しに、雨が降る空をぼんやりと見上げていた奏汰は、私に気が付くと、苦しそうな顔で笑った。
「眞子ちゃん」
私は、スカートが濡れることも気にせずに、傘を左手に持ち替えて、奏汰の隣に座った。奏汰のグレーのパーカーの左袖に、雨が黒い染みを作っていた。
「奏汰、どうしたの? 最近日曜日に来ないから、心配してた」
「そっか。ありがとう」
奏汰は、ここにはいない誰かに話しかけるように、そっと呟いた。少し間をおいて、独り言を言うように、ゆっくりと、奏汰は話し始めた。
「俺、大学行きたかったんだけどさ。文学部」
「うん」
「国公立なら、バイト掛け持ちすれば、何とか学費稼げるかなって、思ってたんだけど」
「うん」
「でも、母さんが、付き合ってた男と、夜逃げしちゃって」
「……うん」
「俺が昼間、バイトで貯めた金がさ。現金も、通帳も、印鑑も、全部なくなってて」
奏汰の顔に、痣があることに気付いた。私の指先が、冷たくなっていく。
「顔」
「ああ。いつもは体だけなんだけど」
「え?」
「男と別れろって、いい加減目を覚ませって言ったら、思いっきり殴られた。母さん、最近は酒と一緒に、病院でもらってきた薬も飲んでたみたいで」
奏汰の顔を、痣を、直視できなかった。奏汰が、声も上げずに泣いているのが、隣に座っていてもわかった。私には、何ができるのだろう。考えてばかりで、何もしていないじゃないか。
「辛かったね、奏汰」
「まあね。いつものことだけど」
私の前では、強がらなくていいのに。
勇気を出して、奏汰の指に、触れた。奏汰の指は、雨に濡れていて、ひんやりと冷たかった。奏汰に触れた瞬間、びくん、と私の指が震えた。奏汰は、その震えを見逃さなかった。
「眞子ちゃんにも、何かあるんでしょ」
私は大きく息を吸い込んで、吐いた。
「あの時。横断歩道で、奏汰がわたしの手を引いてくれた時、全部思い出したの。消そうとしてた記憶、全部」
「うん」
「でも、言えない」
「うん」
「これから、死ぬまでずっと、誰にも言わずに抱えて生きていかなきゃいけないの」
「うん」
「私って、穢いのかな。私が悪い子だったから、いけなかったのかな」
あの日開いた、グスタフ・クリムトの「ダナエ」のページが、鮮やかな色彩で、脳裡に蘇ってくる。
私も、泣いていた。
「そんな」
奏汰の声に力が込められた。
「そんなこと、あるわけない。何がどうあっても、眞子ちゃんは、絶対悪くない」
今、奏汰に触れることができたなら。この指を介して、奏汰と私の暗闇を共有できたなら。
あの日、横断歩道で奏汰に手を引かれた時の、温かい感覚と安堵感が蘇る。けれど、もう一度奏汰に触れることはできなかった。まだ、私には決定的なものが欠けている。
雨が強くなった。学校指定の茶色いローファーのつま先が、雨滴を吸い込み、黒へと変わっていく。
「奏汰」
奏汰の瞳は、潤んでいた。
「海を見に行こう。奏汰」
奏汰の瞳から、一筋、涙がこぼれた。今、私たちを隔てるものは、雨傘以外に存在しないはずだ。私は傘を持って立ち上がると、勇気を振り絞って、奏汰の手を掴んだ。 不思議と、手は強張らない。
腕時計の通知音が頭を貫いた。お父さんからの電話だ。繰り返す通知音が、腕を小刻みに振動させる。私は、覚悟を決めると、腕時計を外し、スマートフォンと一緒に電源を切って、ベンチの下の草むらに置いた。
私を鳥かごに閉じ込めていたのは、お父さんでもお母さんでもなく、私自身だった。私がどう生きるかを決められる権利は、私だけにあるのだ。
もう、私は自由だ。
奏汰の左手をとって、強く引いた。私たちは、駅へと走った。
<来週に続く>
この小説は、小牧幸助さまの下記企画に参加させて頂いております。
小牧部長、シリーズ3週目に入りました!素晴らしい発表の場をありがとうございます。
残り2話程度を予定しております。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!