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"世界で戦う"世界から降りた私の世界観

こんにちは、橋本世界観です(クリープハイプ好きです)。私は社会に出てから長い間海外市場に浸かった後、国内市場に軸足を移しました。巷で"世界で戦う"系の体験記はよく見かけるのですが、そこから降りた人間の発信は限定的かと思い、自身の体験を元に徒然に筆を走らせてみることにしました。

現在世界で戦っている人、これから世界で戦う人、もしくは将来世界で戦いたいと思っている人にとって、少しでもキャリアの参考になれば幸いです。


"世界で戦う"人たち

カテゴリー:持つ者と持たざる者

社会に出た際、私は海外営業としてキャリアをスタートしました。当時の所属部門の担当は海外のみだったこともあり、同僚の方の大半はなにかしらの海外経験があり、大枠では以下のカテゴリーに区分することができました。

  1. 海外のルーツを持つ人

  2. 帰国子女の人(幼年期~児童期 or 滞在5年以上)

  3. 帰国子女の人(思春期~ or 滞在5年以下 or 日本人学校通学 or 非英語圏)

  4. 留学していた人

  5. 海外経験なしの人

※厳密に言えば駐在経験者やインター出身者もいますが私の体験では数が限定的だったため省いています。また、そもそも外資系企業で日本市場に向き合っている人や海外に永住している人も広義の"世界で戦う"に含まれるべきですが、本投稿は狭義の日本→海外の文脈に焦点を当てるため割愛します。

英語力が高い人:1>2>>>>>3>4>5

1と2の方は英語が母国語もしくはそれに近しい一方、他の人達は後天的に第二言語として英語を学んでいます。中には例外もありますが、英語力という意味では1と2とそれ以外では雲泥の差がありました。尚、この差にはテキストや会話によるバーバルコミュニケーションは勿論こと、以下動画のジェスチャーのようなノンバーバル=非言語コミュニケーションも含んでいます。

自ら運命を選択したわけではない人:1、2、3

大体入社時に「おめーどこ中よ?」感覚でどの国に何年、いつ住んでいたか(重要)を共有することになります。その際、1、もしくは2と3のように親の都合で海外経験を経た人同士は、翻弄されてきた故の共感が根底にあるのか「お互い色々大変でしたね」という謎の一体感を感じることがあります。

あえて考えてみればわかるのだが(そして、多くの人はこの“あえて”をわざわざやらない。いや、やってあげる余裕がない)、帰国子女と呼ばれる人たちの多くは、主にサラリーマンの親の勤め先の都合で自分の運命が翻弄されてきた人たちだ。留学のように自らの意志で選択して海外生活をしてきた人たちではない。

出典:“帰国子女”は傷ついている

自ら運命を選択したわけではないが肩身が狭い人:3

一方、帰国子女の中でも思春期以降の滞在や滞在期間が短い人、もしくは現地校ではなく日本人学校に通っていたり、英語圏でなかった人は1や2の人ほど英語力は高くありません。ただ、"世界で戦う"状況下では英語力が仕事力に影響するため、3の人はその中で肩身が狭い思いをすることになります。

とは言えこの思いは社会人から始まったわけではなく、現地滞在時や帰国後から感じているため慣れていることだったりします。中には察してくれる人もいますが、日本における一般的な帰国子女イメージは「(苦労せず)英語が完璧に喋れていいね」というレッテルが付いていることが多いためです。

赤ん坊のときから外国語環境のなかにいるならまだしも、物心ついてからの海外生活では、ちんぷんかんぷんな言葉を毎日のように聞かされるわけだから、普通の感覚なら気が狂いそうになるはずだ。言葉の壁だけではない。食生活も含め、生活習慣も国によって大きく異なる。

しかも、そういう地獄の苦しみ以上に苦しいことがある。そういう経験をして、心が折れそうになりながら正反合を重ね、ようやく外国人と曲がりなりにも渡り合えるようになったのに、そういう苦労を誰一人察してくれないことだ。

出典:“帰国子女”は傷ついている

尚、私自身も思春期の米国2年なので3に該当するのですが、周囲のなにげない一言にモヤることはありました。他人から羨ましがられる度に(小文字のqすら書けず渡米後2ヶ月間毎晩泣いていたことや、友達に"Give me a high five!"と言われても理解できず突然手をギュッと握ってしまった恥ずかしさ等々、二度と経験したくない苦しみの過程も理解した上で言ってる?)とプロ被害者感が出る内容が喉から出そうになるも引っ込めて流していました。

「いいよな〜帰国子女は英語しゃべれて」って言われると、必ずしもいいことばかりじゃなかったけどなぁとか学べることは英語だけじゃなかったよとか、そんなことをコンマ5秒くらいだけ考えたあとに「いいでしょ!」って言う。

特に傷つくこともない。相手もそんなに考えずに言ってること知ってるから。「おはよう」って言えば「おはよう」って言うのと一緒。「風邪引いたの」と言われれば「大丈夫?」と。髪を切ったことがわかれば「髪切った?いいね!」と。帰国子女だってことがわかれば、「英語ぺらぺら!?いいなぁ!」と。

出典:「帰国子女っていいよね」と言われるたびに思うこと

自ら運命を選択した人:4、5

また、自らの自由意志で大学時に海外留学した人や、少数派ですが海外経験はないものの自身の希望で異動や中途入社された方もいました。1~3と比較すると日本の土壌があるため、国内外に跨るリソース調整に長けていたり、商習慣が近く、双方英語が第二言語のアジア圏で活躍された方もいました。

"世界で戦う"楽しさ

新しい世界に触れられる機会

"世界で戦う"過程では海外出張・駐在、海外のステークホルダーを通じて、新しい人や文化に触れる機会があります。海外旅行好きな方が一定数いるように文字通り新しい世界に触れることは楽しく、そして中毒性があります。

無論代償もあり、相手国の法規制に合わせたペーパーワークや、移動に伴う時差ボケやロストバゲージ、健康へのダメージや身の危険のリスクもあります。故に"世界で戦う"という名の移動が連続するとたまに休みたくなるものの、それでも時間が経つとまた行きたくなる、そんな世界だったりします。

国境を超えて付加価値を提供できる

"世界で戦う"とは、海外で付加価値がある製品・サービスを提供するということです。結果、ビジネスを通じてその国に存在しなかった価値を創出できていると実感できた際は、やりがいを感じ、良いスパイラルが生まれます。

また、その価値を別の国に横展開できた時や、日本に逆輸入できた時はビジネスインパクトも大きくなります。海外は国内とは異なる商習慣や不確定要素が多く、新しい課題や困難に直面することも多いため、大きな目標を達成した際の達成感はひとしえに大きく、自己肯定感を高める効果があります。

"世界で戦う"苦しさ

新しい世界に触れられる機会【は刹那的且つ有限である】

海外出張は数日~数ヶ月であり、体感的には一瞬です。海外駐在もほとんどの人はその国で一生を終えるわけではなく、数年で帰国する事になります。複数回駐在する人もいますが、その機会は限定的で多くても数回程度です。

一方、前述の中毒性があることもあり、帰国せず別の国へ連続して駐在したり(通称スライド)、帰国するも数年羽を休めた後、自身のライフステージに応じて再度駐在を希望する人もいます。とは言え駐在は狭き門であることが多いため、中には機会を待ち続けるもぶら下がり社員と化す人もいます。

国境を超えて付加価値を提供できる【は一定のフェーズまで】

世界で戦い始めた段階、言い換えますと海外で付加価値がある製品・サービスを提供し始めてそれほど時間が経っていない場合、バリューチェーンの大半は国内側のため、必然的に自身が提供できるバリューは大きくなります。

一方、ビジネスのフェーズが進むと(市場から撤退しない限り)、バリューチェーンの現地化が進むことになります。なぜならその方がQCDが良くなりビジネス的には大正義であり、これに伴い相対的に自身が提供できるバリューは小さくなります。つまり時間の経過と共に地産地消が進むため、国境を超えて提供できる一定の大きさの付加価値提供には時間的制約があります。

一定入社目標を達成した頃、海外に携わった頃から感じていた「日本人が日本から提供できる付加価値は限定的」というジレンマが大きくなりました。言い換えますと、現地のマーケティングは解像度が高い現地で対応する方がQualityは上、為替リスクを無視して内部工数も最小化できるためCost上も好ましく、日本を挟まず対応できるので時差というDeliveryを最短にできるため、現地で対応する方がQCD良く付加価値を提供できるということです。

出典:自身の入社エントリ

"世界で戦う"世界から降りるメリット

というわけで楽しさと苦しさ(とせつなさと心強さと)を感じながら世界で戦った後、私はそこから降りることを選択しました。国内市場に軸足を移してまだ日は浅いのですが、現時点で感じているメリットは以下の通りです。

母国語で戦える

"世界で戦う"は文化や商習慣が異なる相手と第二言語でやりとりをするため、至極当たり前なことなのですがミスコミュニケーションが発生します。

また、英語と言ってもアメリカ英語やイギリス英語のようにそもそも単語が異なるものや、マングリッシュのように語尾にlahが付いたり、その国で好まれる伝え方を用いて情報伝達率を高める等、使い分けにも迫られます。例えば米国の人へのメールにcenterと記載するも英国の人にはcentreと記載したり、マレーシアの人と話す際に印象を良くするためyesではなくcan lahと言ったり、欧州圏の人とWhatsAppでやりとりする時はgood luckではなく絵文字(fingers crossed)を使用する等、一定の異文化調整力が求められます。

この課題は大小あれど完全に解決することは難しく、私は常に重い鎧を着て戦っている感覚でした。一方、その世界から降りた現在は自身も相手も母国語で意思疎通できるため鎧なし=ハンデなしで戦えている感覚です。無論、日本語でも認識齟齬は発生しますが、以前に比べその機会は減りました。

同じタイムゾーンで戦えて休日に休める

"世界で戦う"場所と自身の場所の時差が大きい、言い換えますと被る時間帯が少ない場合、どうしても生産性が落ちます。また、時には自身か相手どちらかが折れる必要が生じ、その場合早朝や深夜に対応する必要が生じます。

加えて、日本の休日は現地と同一ではないので、休日にどうしても緊急対応が生じたり、長期休暇後にメールが数百件貯まり、タスクに追われる休暇明けとなることは避けられません。一方、これが日本の国内市場同士の場合、時差なく相手とほぼ同じカレンダーでフェアに戦うことが可能となり、より多く同期して生産性を高めつつ、休日に普通に休むことが可能となります。

不確定要素を減らして戦える

"世界で戦う"場合、円で売買するケースを除き為替リスクが発生します。為替は水物なため、外貨割合が大きいとインパクトが大きくなります。例えば前年比+10%成長も為替影響が-10%だと一見成長していないように見えたり、逆に実質成長していないが為替でプラス成長に見えることもあります。

また、モノが発生する場合、各国の関税や規制の影響を受けます。つまり"世界で戦う"世界においては、単一国内での取引と比較してコントロールできない要素が多くなります。これは不確実性が高くなるため、想定していなかった支出や納期が加わる等、ストレスフルな状況に陥ることが多々あります。

さらに言えば、結局どの施策より影響が大きい為替に怯える日々を過ごしたり、首脳交代に伴う関税の急な変更に振り回されたり、規制の追加対応を後出しして袖の下ゲームに巻き込まれることもあります。日本国内においても不確定要素はありますが、数が減ることで上記の苦しみから開放されます。

"世界で戦う"世界から降りるデメリット

"世界で戦う"ために必要な筋肉量が減る

筋トレを辞めたら筋肉量が落ちるように、私の場合は言語は勿論のこと世界情勢へのアンテナが落ちました。とは言え、希望的観測を含めますと、過去ある程度肉体を作り込んでいれば次にその必要性に迫られた際、取り戻すのに一定時間はかかれど戻すことは可能だと思っています。この点は本件に限らず、職種を変更した人が以前の職種に戻す労力と同じだと考えています。

(とは言え)いずれまた"世界で戦う"日は来る説

また、長い人生視点では、所属組織のフェーズが変わったり、自身のライフステージが変わったりした時、遅かれ早かれいずれまた"世界で戦う"ことになるのではとも思っています。なので、今年はリハビリがてら緩い運動習慣を取り入れたいとここでお気持ち表明しておきます(ダブルミーニング)。

"世界で戦う"世界から降りたくなった人へ

降りるも降りないも自身の選択

ここまでお読みになった方で、もしかすると現在世界で戦っている or これから戦う人で「降りたくなってきた、、」と思われた方、もしくは将来世界で戦いたいと思っていたが考えを変えた方もいらっしゃるかもしれません。

もしくは「逆に降りたくなくなった」という方もいらっしゃるかもしれません。どちらにせよ第三者視点での良否判断に意味はなく、自身がジャッジすべきですしこのジャッジも時間軸によって変わることもあります。私自身、今は自身の選択に満足しているものの、将来は後悔する可能性があります。

さいごに

とどのつまりは「(今と将来になるべく)後悔しない選択をしてください」と月並みなコメントに行き着きます。ただもしこの記事がきっかけで新天地を探す方がいらっしゃったら責任を感じてしまうので、一応免罪符として私が所属している企業の採用ページを掲載しておきます。インゲージでは採用活動も積極的に行っていますので、もし興味ありましたらご応募ください。

今回の投稿は以上となります。長文お付き合いいただきありがとうございました!この投稿が少しでもお役に立てましたら、以下のスキボタンをポチッといただけますと幸いです。noteアカウントお持ちでない方も押せます!

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