【飛鳥II 世界一周 ランドツアー パリ 2-5】印象派の歴史を辿りました
飛鳥II 世界一周クルーズ 42日目の2024年5月17日 、ランドツアー「パリ滞在 3泊4日」に参加していました。
朝散歩した後、パリ市内観光ツアーに出かけました。
ツアーでは、まずシャンゼリゼ通り付近や凱旋門、その後セーヌ川付近やエッフェル塔に行き、ナポレオン縁の場所にもいきました。
ランドツアー 2日目のオルセー美術館をツアーで観光した出来事について、お話します。
おるせー
オルセー美術館は、19世紀美術専門の美術館で、印象派の画家の作品がたくさんあります。
この建物は、もともと1900年のパリ万国博覧会のために建てられたオルセー駅の鉄道駅舎兼ホテルだったそうです。
ほーる
中央ホールに入ると、自由の女神像や彫刻たちがお出迎えしてくれました。
大時計や彫刻が本当に素晴らしく、ついまじまじと見てしまいます。
中央ホールは、奥の2階からも眺めることができます。
ただただこの美しさを、ずっと見ていたくなります。
おおどけい
外から見える大時計は、内部から近づくことができます。
その大きさと美しさに感動しました。
向こう岸にあるルーブル美術館も見える、素敵な光景です。
レストラン&カフェからも、大時計が見えます。
ここで食べたり飲んだりする時間は、とても素敵な時間になりそうです。
かいが
日本語ガイドさんと一緒に美術館の中を周りました。
イヤホンガイドを通していろいろ説明してくださるので、聞きながら自由に鑑賞できて、しかも勉強になり、とても良かったです。
そして館内は写真撮影がOKなので、ついたくさん撮影してしまいました。
自由に撮影できるって、すごいことですよね。
絵画のお話はかな〜り長文になってしまいましたが、お付き合いいただけると嬉しいです。
あかでみっく
こちらは、トマ・クチュールの「退廃期のローマ人たち」です。
アカデミック美術で、彼自身も美術の先生だったそうです。
大きな絵画は、観ていてとても迫力を感じます。
この分類で有名な彫刻家の1人に、ジャン=バティスト・カルポーがいます。
「ダンス」「地球を支える四つの世界」「世界に光をもたらし農業と科学を守るフランス帝国」などの作品がありました。
今にも動き出しそうなくらいの躍動感があります。
しゃじつ
こちらは、ジャン=フランソワ・ミレーの作品たちです。
ミレーは、自然主義的な風景画や農民画を写実的に描くバルビゾン派の代表的画家の1人で、特に農民画で知られています。
「晩鐘」や「落穂拾い」など有名な絵画を見ると、「あの名画が目の前に!」とテンション上がります。
いんしょうのはじまり
こちらはエドゥアール・マネの作品「オランピア」と「草上の朝食」です。
印象主義の初期の作品です。
彼は理想化された主題や造形を追求するアカデミズムに反し、当時のパリの都市生活をはっきりした輪郭や平面的な色面を用いながら描きました。
この2つの作品は、現実の裸体の女性や娼婦を描いたことで批評家から大批判を受けましたが、19世紀後半以降の西洋絵画に大影響を及ぼしました。
新しい時代の始まりを作った絵を実際に見れて、感動しました。
ちなみに「オランピア」は、パリ万国博覧会に合わせて開かれたフランス美術100年展に展示され、アメリカに売られることになっていました。
それを聞きつけたクロード・モネは、マネ未亡人から購入して美術館に寄贈しようという運動に乗り出し、リュクサンブール美術館に収蔵させることに成功したそうです。
今日私たちがオルセー美術館で鑑賞できるようにしてくださったモネに感謝です。
もね
クロード・モネの作品「印象・日の出」は、「印象派」という言葉の生まれるきっかけになったそうです。
モネもアカデミズムに反し、印象派グループに属しました。
そしてサロンとは独立した第1回印象派展を開催し、「印象・日の出」などを出展しました。
それをパリの風刺新聞「ル・シャリヴァリ」で批評家ルイ・ルロワが酷評し、展覧会の名前として記事で取り上げました。
それから、「印象派」という言葉が生まれたそうです。
言葉が生まれた街パリにいると思うと、感慨深いものがあります。
オルセー美術館には、第1回印象派展の頃のモネの作品「アルジャントゥイユのレガッタ」「昼食」があります。
モネは、印象派展での失敗と支援者デュラン・リュエルが経済困難により絵が買えなくなったため、生活に苦しくなり、妻子も病気で亡くしてしまいます。
この作品は、その時に描いた「死の床のカミーユ」です。
モネの悲しみが絵から溢れてくるように感じます。
その後モネがサロンに出品したことがきっかけに、印象派グループが解体しました。
モネは、印象派の歴史に大きな影響を与えた画家なんですね。
フランスの景気が回復したころ、支援者が経済的に立ち直ったため、モネの経済的基盤は安定するようになりました。
その時代に描いた作品、「日傘の女」と「チューリップ畑・オランダ」です。
1867年パリ万国博覧会でパリにも日本美術が伝播し、1870年代から1880年代には、パリを中心に日本ブームが巻き起こったそうです。
モネも浮世絵などの日本美術の影響を受けました。
こちらは、ジャポニズムの成熟の表れた頃の作品「舟遊び(ノルヴェジエンヌ号で)」と「ルーアンの大聖堂、昼」です。
1890年代に購入したジヴェルニー家の周りに花の庭を、隣の敷地には「水の庭」と呼ばれる日本風の太鼓橋のある睡蓮の咲く池を作りました。
ここで代表作の「睡蓮」がたくさん描かれました。
この作品は、「睡蓮の池、緑のハーモニー」と「ジヴェルニーのモネの庭」です。
一方で、ロンドンを訪れて国会議事堂の連作も手掛けました。
こちらはその連作のひとつ、「ロンドン、国会議事堂:霧に透けて見える太陽」です。
それぞれの時代のモネの作品が、睡蓮の絵も含めて見れるなんて、とても贅沢な時間でした。
るのあーる
モネと同じく印象派の代表画家といえば、ピエール=オーギュスト・ルノワールです。
ルノワールは画家を目指して入った画塾でモネらに会い、共に印象派の手法を生み出していきます。
こちらはサロンに最初に挑戦していたころの作品「ダラス夫人」と、印象派展に出していたころの作品「アルフォンスドーデ夫人」「クロード・モネの肖像」です。
しかし、印象派展は酷評され、経済的に苦しくなりました。
そのため、作品の評価が保証されるサロンで入選して作品が売れる必要があり、再度サロンに挑戦しました。
こちらは、そのころの作品「少女アルフォンジン」です。
その後、イタリア旅行で新古典主義に興味を持ち、デッサン重視に転向して、写実性の強い画風になります。
その頃描いたダンス3部作のうちのふたつ、「都会のダンス」と「田舎のダンス」が、こちらの作品です。
「都会のダンス」と「ブージヴァルのダンス」はシュザンヌ・ヴァラドン、「田舎のダンス」はアリーヌ・シャリゴがモデルだそうです。
最初は「田舎のダンス」もシュザンヌがモデルの予定でしたが、アリーヌが自ら阻止したとか。
さらに当時ルノワールは、この2人と交際していて、結局結婚したのはアリーヌの方でした。
そんな背景を知ってこの絵を見ると、節目がちなシュザンヌに対して、こちらを見てにっこり笑うアリーヌ・・・
アリーヌの強さを感じると共に、モデルの時に妻になることを知っていたかのような微笑みだなぁと思いました(笑)。
ルノワールの絵といえば、やわらかい色調の女性裸体画も有名ですが、今回見れたのは「浴女たち」と「横たわる裸婦」でした。
このころの作品で、政府買上げかつ勲章授与された「ピアノに寄る少女たち」も見ることができました。
いんしょうは
踊り子を見つけると、「あ!ドガだ!」ってすぐわかるので好きです(笑)。
こちらは、エドガー・ドガの「ダンス教室」です。
アルフレッド・シスレーも、典型的な印象派画家のひとりだそうです。
こちらの作品は、「モレの橋」「サン=マメス」です。
ごっほ
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホは、ポスト印象派を代表する画家です。
彼は弟テオドルスを頼ってパリに住み、印象派や新印象派の影響を受け、画風を積極的に取り入れるようになったそうです。
そのころの作品「イタリア女」「銅の花瓶のアミガサユリ」です。
その後ゴッホは、南フランスのアルルに移り、「ひまわり」などの名作を描きました。
こちらは同じ頃描かれた「ローヌ川の星月夜」と「アルルのダンスホール」です。
南フランスに画家の協同組合を築くことを目指し、ポール・ゴーギャンとの共同生活も始めました。
その頃の作品「アルルの女 (ジヌー夫人)」です。
しかし共同生活はうまくいかず、自らの左耳を切り落とす事件を起こしてしまい、入退院を繰り返すようになります。
その頃描いた「自画像」「ファン・ゴッホの寝室」です。
自画像は、左耳側を隠す角度で描かれています。
ゴッホは発作に苦しみ、1890年に銃で自らを撃ったそうです。
こちらは、ゴッホが亡くなった年に描かれた「昼寝」「二人の少女」「コードヴィルの藁葺き屋根の家」「ポール・ガシェ博士の肖像」です。
病気と闘いながら、こんなに素晴らしい作品を生み出していたのかと・・・しみじみと眺めてしまいました。
ごーぎゃん
ポール・ゴーギャンは、ゴッホと同じくポスト印象派を代表する画家です。
ゴッホと共同生活を送った時代の作品「アルルのアリスカン」「黄色い積み藁(黄金の収穫)」です。
ゴッホの耳切り落とし事件時にゴーギャンと生活していたこと、知りませんでした。
ゴーギャンといえばタヒチでの作品が有名ですが、彼がタヒチへ向かったのはヨーロッパ文明と人工的・因習的なものからの脱出を図るためだったそうです。
最初のタヒチ滞在の頃の作品「タヒチの女(浜辺にて)」「自画像」です。
私にとってゴーギャンの絵で1番最初に思いつくのは「タヒチの女」なので、実物見れて感動しました。
その後一旦パリに戻りますが、パリの美術界で孤立してしまい、再度タヒチへ向かいます。
2度目のタヒチ滞在での作品「ヴァイルマティ」です。
晩年は、ヒバ・オア島で過ごしました。
その頃の作品「黄金色の女たちの肉体」「快楽の家(ラ・メゾン・デュ・ジュイール)」の入口木枠」です。
べるなーる
エミール・ベルナールも、ポスト印象派を代表する画家のひとりです。
ゴーギャンと共に、2次元性を強調した平坦な色面などに特徴のある綜合主義を生み出しました。
こちらはゴーギャンの影響を受けた作品「パードン祭」です。
しかしその後、ゴーギャンとは絶好に至ってしまうそうです・・・。
その頃の作品「海沿いの村の収穫」「日傘をさすブルターニュの女たち」です。
ちなみにベルナールは、ゴッホとも交流が深く、葬儀に参列もしているそうです。
せざんぬ
ポール・セザンヌも、ポスト印象派を代表する画家です。
印象派展に出展していたころの作品「自画像」です。
彼は印象派を離れ、平面上に色彩とボリュームからなる独自の秩序がある絵画を追求しました。
そして、若い画家や批評家の間では、徐々にその評価が高まっていったそうです。
そのころの作品「サント=ヴィクトワール山」「水浴する男たち」です。
セザンヌといえば静物画ですが、「リンゴとオレンジ」や「台所のテーブル」などはオルセー美術館に収蔵されています。
セザンヌの言葉「自然を円筒、球、円錐によって扱う」は、後のキュビスムにも影響を与えたそうです。
るどん
オディロン・ルドンは、象徴主義を代表する画家のひとりです。
19世紀後半、従来のアカデミスムに対する反発として、印象派の傾向と同時期、象徴主義が生まれました。
象徴主義は人間の内面や夢、神秘性などを象徴的に表現しています。
こちらの作品たちは、「ドムシー男爵の城館の食堂壁画」です。
おわりに
飛鳥II 2024年 世界一周クルーズ ランドツアー「パリ滞在 3泊4日」2日目のオルセー美術館での出来事について、お話しました。
オルセー美術館の建物や大時計、そしてアカデミック美術、写実主義、印象主義、象徴主義の絵画や彫刻を鑑賞しました。
ガイドさんと一緒にまわったので、特に印象派の有名画家や歴史を辿ることができて、とても充実した時間になりました。
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。
次は、ランドツアー 2日目の続きの出来事について、お話します。