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手作りドレスとシフォンケーキ。
大学2年生の終わりに、親友の母親が自ら命を絶った。
その親友も闇の中にいて消えてしまいそうだったときに、どんなにできることをしてもその時の自分にできることしかできなくて、どんなに想像しても傍観者のようで悲しかった。自分も傷つけている一員のように感じられた。正面から受け止める強さが、当時の私にはなかったから。
周りに打ち明ける勇気すらなかった。それくらいに弱かった。
私も大好きだった、笑顔がチャーミングで、
料理上手だった優しいひと。
高校生だったときには、いつもシフォンケーキを焼いていた。
家に行くと、その親友のためによくドレスを作っていた。
亡くなる前の月、本番の会場まで車で送ってもらって、最後に写真を撮って、手を振って別れた。
本番の会場、楽屋、舞台でのスポットライト、親友の歌声。真新しい手作りのドレス。
終わった後に交わした一言一言が、今でも鮮明に思い出せる。
重松清さんの書いた小説、『カシオペアの丘で』。
一番の、唯一の存在が突然しぬってどんな気持ちなのか、少しでも自分ごとのように理解したくて、ひとり手に取った本だっけ。
親友にはヘンリー・スコット・ホランドの詩集、『さよならのあとで』を贈った。
考えるよりも先に身体が近所の書店に向かっていて、購入したその足で郵送した。
人が亡くなることの重みは、年月が経つごとに薄れるのではなく、より意味を持って深まってゆくのだと思う。
「考えることが答え」だという、重松清さんの本の中の一節に心を救われた気持ちになって、
時間が経てば経つほど、それは真実のようにおもう。
答えは出なくても、考え続けること。
問い続けることをやめないことだ。
考え続ける限りは終わらないし、そのことの意味は、塗り替え続けることができる。それは希望であっていい。
希望であったほうがいい。
考え続けなければ、悲しい余韻のままに、やがてほこりを被り、そこに留まり続けるだけだ。
問い続けて想像する力。
それは人間らしさであり、動物とは違う、人間のもつ素晴らしい力だと思うから。
限りなく想像することが、わたしたちに唯一できることだ。
想像する時間が失われる一方な現代の世の中で、
その時間が失われることのほうを恐れよう。
人の命は本来重いもの。
どんなに重いと言われようが、
その瞬間がどんなにつらくても、
何の感情にも気がつけないくらいなら、
他人の心の痛みに鈍感で、その想像力が失われるくらいなら、
自分が傷つくほうが、苦しくてもつらくても真正面から痛みを味わうほうが、よっぽどましだ。
その分の喜びや嬉しさは何倍も味わって表現して、周りの人たちと共有して。
そのときには、きっと感謝が湧かずにはいられないから。
生きていてよかった、と思える時間を、そう思い合える時間を生きているうちに、
大切なひとたちと沢山積み重ねて生きよう。
それだけで良いんだ、と心から思う。
人は意識していなくても、一緒にいる人の影響を受け取るものだから、
大切な人を笑顔にする1番の方法は、間違いなく自分が笑顔でいることだと思う。
そのための自分を、いつも日々丁寧に向き合ってつくっている。
読書はいつも、想像するための時間を取り戻してくれる。
言葉が届くのが、いつもその瞬間のことではなく、時間が経ってからなのと同じように、
読んだ本の影響を受けとるのは、いつも時間が経ってからのことだ。
"人と笑い合える"ってそれだけで奇跡。
そこにある当たり前の奇跡をいつも思いだして、
少しの余白と想像力をもって、
今日も生きよう。
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