ボッティチェリは「泣き虫」だったのか?②
①の話は以下よりどうぞ↓
①ではイタリア・ルネサンスの巨匠サンドロ・ボッティチェリ(Sandro Botticelli, 1445-1510)と当時のフィレンツェに大きな影響を及ぼした修道士ジローラモ・サヴォナローラ(Girolamo Savonarola, 1452-1498)との結びつきについて書きました。ボッティチェリは度々サヴォナローラとの関係において語られます。それはルネサンス期の画家兼美術史家ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari, 1511-1574)の記述、ボッティチェリの一つ上の兄シモーネの日記の記述、そしてボッティチェリ自身が明らかにサヴォナローラの説教を視覚化したような作品をのこしていることが理由です。
上記のことからボッティチェリは「ピアニョーニ(Piagnoni:泣き虫派)」だったと簡単に片づけられることがあります。泣き虫派とはサヴォナローラの熱狂的な支持者の一団のことです。彼らはサヴォナローラの説教を聞いて涙を流したことからこう呼ばれました。
実際ボッティチェリは泣き虫派だったのでしょうか。②ではもう一歩踏み込んでボッティチェリの晩年についてみていきたいと思います。
ヴァザーリの供述の信憑性
ヴァザーリはルネサンス期の数多くの芸術家の人生についてまとめた書物を残しました。ルネサンス研究の最も基礎的な資料です(実はウェブ上でも読むことができます)。しかしヴァザーリの記述が重要だからといって、彼の記したことすべてが正しいとは限りません。なぜなら後世の我々からみると同時代を生きているように見えますが、ヴァザーリが生まれたのはボッティチェリが亡くなった翌年です。彼は生前のボッティチェリを知っているわけではありませんでした。
さらに重要なことは、ヴァザーリがフィレンツェ周辺の土地を治めていたメディチ家のお抱え画家だった、ということです。ヴァザーリはサヴォナローラに関して明らかに批判的です。彼の芸術家としての良心が、美術品を焼却したサヴォナローラへの嫌悪感につながった面もありますが、この修道士がメディチ家の専制政治を批判し、メディチ家の一時的なフィレンツェ追放に至ったという政治的敵対相手だという面も大きいでしょう。
ボッティチェリの経営戦略
ボッティチェリ晩年の制作状況
ヴァザーリの記述には、ボッティチェリは晩年サヴォナローラに熱狂し、画業を捨て、ひどく困窮した状態となった、と述べられています。しかし興味深いことに、現存する作品で1475-1490年に制作されたと思われる作品と、1491-1505年に制作されたと思われる作品の数はそんなに変わりません。前者が21作品、後者が26作品とむしろ晩年のほうが数が多くなっています。(※この数は参考文献O'Malley, Michelle, "Responding to changing taste and demand: Botticelli after 1490"から引用しています。制作時期の記載がない失われた作品と肖像画は省かれています。)
ここだけ挙げるとまた誤解が生まれるかと思うので補足すると、前・中期の作品は大きめのものが多く、依頼者はフィレンツェを代表するようなエリート一族や公共機関が多かったようです。翻って後期はサイズも小さく、主題はキリスト教的なものが増え、1作品あたりの金額も低かったようです。さらに後期の作品の中で、特に「祭壇画」の領域はボッティチェリ本人の手が少なく、工房の弟子たちが描いた部分が増えたと考えられています。
ルネサンス期の工房制作
工房の弟子が制作した、というと、なんだボッティチェリの作品とは言えないじゃないか、ヴァザーリが指摘した通り晩年は仕事をしてないじゃないか、と感じる方もいるかもしれません。しかし実は工房での制作はルネサンス期では一般的です。当時のフィレンツェでは組合(いわゆる日本のアニメ等で人気のギルドというやつです。画家は聖ルカ組合と呼ばれるものに参加していたようです。)に参加することで一人前の親方(マエストロ)となることができました。親方は徒弟をとり、彼らに給料を払いながら制作を手伝わせたり、自分が制作した素描(下書きみたいなもの)などを使用して修行させたりしていました。
例えばヴェロッキオ(Andrea del Verocchio, 1435-1488)は非常に大きな工房を経営していたようで、徒弟の中にはかのレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci, 1452-1519)もいたということで有名です。ヴェロッキオは《キリストの洗礼》制作中に、徒弟のダ・ヴィンチに天使を描かせたところ、そのあまりの技術の高さに心を折られ、彫刻に専念するようになったという伝説があります。実際のところは、ヴェロッキオが絵より彫刻のほうが得意だったようなので、絵画の基本的な制作を徒弟に任せ始めたと考えるのが現実的かもしれません。ヴェロッキオの工房のように制作を徒弟が担当することは珍しいことではありませんでした(もちろん料金などによって変わったと思われます)。
ちなみにヴェロッキオの工房には若いころのボッティチェリもよく顔を出していたようです。ボッティチェリは師匠(フィリッポ・リッピ)が亡くなった関係でかなり若い時点で独立しているため、半徒弟・半共同制作者のような形でヴェロッキオが面倒をみていたのかもしれません。意外な事実かもしれませんが、ダ・ヴィンチにとってボッティチェリは兄弟子のようなものだったんですね。
需要と供給から見るボッティチェリの作品制作
話を戻すとボッティチェリは1490年以降の晩年、キリスト教主題の作品を増やし、サイズも小さく、金額も安く請け負っていたようです。これを考察するにあたって、現代と当時の芸術制作のスタンスの違いを理解しなくてはいけません。現代の芸術家は自分なりのスタイル、個々のクリエイティビティを発揮した作品を制作し、それに魅力を感じた人が買い取る、といった形をとっていると思います。しかしルネサンス期は基本的に依頼によって制作を行います。現代でいうと芸術家というより家具などを作る職人のイメージが近いでしょう。そのため上述のヴェロッキオのように依頼によっては彫刻も絵画も制作したり、時にはインテリアデザインも行ったと考えられています。作品の主題等は基本的に依頼者が指定しますが、時には構図さえも依頼者側が考えているとみられることもあります(当時の芸術家が構図や主題を考える創造性がなかったとするのはあまりに極端な考え方ですが、ボッティチェリの《春》などの複雑な思想が織り込まれている作品の場合、どこまでが画家の発想でどこまでがパトロンの指示なのかを推し量るのはとても難しいです)。
家具などのインテリアを制作販売する小規模の会社、と考えるとボッティチェリの置かれた立場が分かりやすいかもしれません。依頼がなければ制作はありません。ルネサンス期の作品制作には需要と供給の影響を強く受けていました。
1490年にサヴォナローラがサン・マルコ修道院の修道院長に就任し、繰り返し贅沢品を非難したこと、92年にロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici, 1449-1492)が死去したことによる政治的不安定、94年から始まるフランスの侵略戦争による物価の上昇、これらすべてがフィレンツェ人の消費傾向の変動につながったと思われます。つまり以前のような大きいサイズのモニュメンタルな作品の依頼が大幅に減り、代わりに家庭で飾れるような小さいサイズで、キリスト教主題の敬虔な絵画の需要が増えた、ということです。ボッティチェリはこのような状況に対して、祭壇画のような大口商品の制作に関する大枠を工房の徒弟が担当することで金額を下げ、より小規模な商品制作の間口を広げて対応したというわけです。あの美しく優雅な絵画からは想像もつかない経営者としてのボッティチェリの側面です。上記の景気の問題から工房の運営はなかなか厳しいものがあったことは想像に難くありませんが、1505年にはローンを返済した記録があり、1505年以降は隠居していたらしいことなどからこの経営方針はそれなりに成功したようです。ルネサンス期の芸術家において、晩年の引退は非常に珍しいことではなく、レオナルド・ダ・ヴィンチやピエロ・デッラ・フランチェスカ(Piero della Francesca, 1412-1492)なども同様でした。引退直前の1502年には、マントヴァ侯妃イザベッラ・デステ((Isabella d'Este、1474-1539)の代理人から侯妃の書斎装飾の仕事を持ち掛けられ、喜んでやりたいと返答していた書簡が残っており(結局任されなかった)、フィレンツェ外に出張する仕事もやる気満々だったようです。つまり特にサヴォナローラの影響で画業をやめたわけではないことがわかります。
ボッティチェリの交友関係
ボッティチェリの作品制作に関わる経済的側面や工房という場所について見たところで、ここに関わっていた人々について触れてみます。彼らとの関係が、サヴォナローラとの関係について理解する助けになるはずです。
パトロンとしてのもう一人のロレンツォ・メディチ
ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(Lorenzo di Pierfrancesco de' Medici, 1463–1503)は、メディチ家傍流の家系の人物です。前述のロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici, 1449-1492)、通称ロレンツォ・イル・マニフィコ(豪華王)とはお互いの祖父が兄弟、つまりはとこの関係でした。ピエルフランチェスコは両親を早くに亡くし、イル・マニフィコが後見人となって教育などを施しました。しかしピエルフランチェスコは遺産問題などでイル・マニフィコと揉め、メディチ本家と完全に決別した道をたどります。表向きメディチ本家の専制政治を批判する立場をとり、イル・ポポラーノ(民衆殿)と呼ばれました。
実はボッティチェリの代表作のほとんどはこのロレンツォ・イル・ポポラーノのため、もしくは彼自身の依頼で制作されています。例えばあの《春》や《ヴィーナスの誕生》がまさにそうです。
イル・ポポラーノは上述の通り、イル・マニフィコの死後メディチ本家に反旗を翻しました。ヴァザーリの記述にある通り、ボッティチェリはイル・マニフィコのロレンツォと深い交流を結んでいましたが、最大のパトロンはイル・ポポラーノのほうのロレンツォであり、それは2つのメディチ家の間に亀裂が入った後も変わりませんでした。
ところで、このロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ(イル・ポポラーノ)は、反メディチ本家の専制政治を掲げましたが、親サヴォナローラ派ではありませんでした。つまるところメディチ家の分裂はフィレンツェ支配における主導権争いだったわけで、サヴォナローラとは当然相容れない立場でした。実際ロレンツォ・イル・ポポラーノは1497年に、おそらく泣き虫派の策略によってフィレンツェから逃亡しました。
ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコとサヴォナローラは対立していたにも関わらず、その期間にもボッティチェリはかなりロレンツォと親交が深かったことがわかっています。一つには1495年、97年とボッティチェリの工房に仕事を依頼している書簡が残っていることが理由ですが、もう一つ面白い史料があります。それはミケランジェロ( Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni, 1475-1564)の手紙です。ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコはミケランジェロの初期のパトロンであり、ミケランジェロはロレンツォの勧めで自分で彫った彫刻を古代ローマの出土品としてローマまで売りに行ったそうです(漫画みたいな話ですがこの彫刻は売れたようです。ただし古代ローマ時代のものとしてではなく、作品自体の出来栄えが評価されたからだとか)。ミケランジェロはこの一連の顛末をロレンツォに報告するため、1496年に手紙を送りましたが、ロレンツォ本人宛ではなくボッティチェリ宛に送ったということがわかっています。これは上述のように、ロレンツォがサヴォナローラ派との対立によりフィレンツェを離れがちだったこと、そしてボッティチェリなら確実に会うであろうことを想定していたからだと考えられます。ボッティチェリが政治的に熱狂的な泣き虫派ではなかったことがうかがえるエピソードですが、ボッティチェリとあの気難しいミケランジェロが親交があったということも驚きです。
怠け者のアカデミア
①の記事で、ボッティチェリの兄シモーネがドッフォ・スピーニとボッティチェリの会話を日記に記録していたことに触れました。このドッフォ・スピーニという人物は反サヴォナローラ派の一党コンパニャッチ(Compagnacci, 悪臣派)のリーダーです。その会話の中で、ボッティチェリはスピーニに対してサヴォナローラの死について問い質すなど、修道士の死に対して同情的な反応を示しています。
ところでスピーニとボッティチェリはどのように(あるいはどこで?なぜ?)話していたのでしょう。実はこの会話はボッティチェリの工房で行われました。ボッティチェリの工房は「怠け者のアカデミア(accademia del scioperati 綴り間違ってるかも)」とも呼ばれており、様々な暇人が集まってうわさ話やよもやま話をする集会場と化していたようです。"scioperati"は怠け者とかろくでなしとか無職とかそんな感じの意味で、つまるところ無職のアカデミアというかなりパンチのきいた名称です。スピーニもこのアカデミアの一員としてよく工房に立ち寄っており、その折にボッティチェリとサヴォナローラについて会話したということが想像できます。このアカデミアという発想は、当然おそらく若かりしボッティチェリも関わっていたと思われるメディチ家周辺の人文学者サークル、プラトン・アカデミー(Accademia Platonica)の影響でしょう。工房がそれなりに教養がある暇人たちが集まっておしゃべりをする場であった、ということからもボッティチェリの人格や人徳が想像できます。
上記のことから、ボッティチェリの工房は兄シモーネが熱心な泣き虫派であったにも関わらず、サヴォナローラ敵対派のスピーニさえも立ち寄るようなある程度政治的に中立な場所として機能していたということがわかります。1498年のサヴォナローラの処刑後、熱心な泣き虫派の人々は迫害を恐れてフィレンツェから一時的に離れた人も多く、シモーネもまたボローニャに避難したことがわかっていますが、弟であるボッティチェリはフィレンツェにとどまりました。それはやはり彼は泣き虫派ではなかったからなのでしょう。
ボッティチェリとサヴォナローラ(まとめ)
ではボッティチェリが晩年にサヴォナローラの思想を反映した作品を制作したのは、ただ依頼されたから、もしくは経済的な戦略だったからだけなのでしょうか。そう言い切ってしまうのは少し味気ない気がします。
熱心な信者ではなかったにしろ、サヴォナローラに共感する部分は大いにあったのでしょう。ボッティチェリがサヴォナローラを通して感じていたのはおそらく都市の未来に対する大いなる不安です。世紀末のフィレンツェで起きた偉大なる指導者の死、その直後の侵略戦争の恐怖という衝撃は、それまで都市全体を覆っていた享楽的で全能的な熱狂の酔いを醒ますには十分だったと思います。ボッティチェリはフィレンツェに生まれ、フィレンツェに死んだ生粋のフィレンツェ人です。その生涯を通してフィレンツェを離れることはほとんどなかったほどでした(ローマに行った際も早々に仕事を切り上げて帰ってきたと言われています)。
彼のアイデンティティの根底にはフィレンツェという都市への帰属意識があったと思います。そんなボッティチェリにとって、都市の明らかな凋落の兆しはどれだけ恐ろしいものだったでしょうか。
ボッティチェリは①であげたサヴォナローラの思想を反映した作品の中で、世界の終末(破壊)からフィレンツェの復活(再生)という一連の世界観を願いを込めて描きました。《神秘の降誕》に記されている本人のサインからも、その希望が画家にとって個人的に切実なものだったことを示しています。ただ多くの人が知っているようにフィレンツェはその後二度と歴史の表舞台を飾ることはなく、画家の願いはむなしく成就することはありませんでした。結果的に、誇りをもって「ローマの娘」を自称したフィレンツェは現在も15世紀当時の都市の面影を残しています。
ボッティチェリとサヴォナローラの関係は、宗教的熱狂、宗教感情に大きく左右された繊細な芸術家という幻想の観点ではなく、15世紀のフィレンツェを生きていた1人の市民という視点でとらえるべきものでしょう。私たちはここに都市の衰退への恐怖と生まれ故郷への郷愁的感情、そしてある意味では近代的ナショナリズムの芽生えさえも見ることができるかもしれません。
参考文献
・ライトボーン、ロナルド『ボッティチェリ』森田義之・小林もり子訳、西村書店、1996(Ligtbown, Ronaldo, Sandro Botticelli: Life and Work, 2vols., London: Elek, 1978.)。
・O'Malley, Michelle, "Responding to changing taste and demand: Botticelli after 1490," in Sandro Botticelli(1445-1510): artist and entrepreneur in Renaissance Florence; proceedings of the international conference held at the Dutch University Institute for Art History, Florence, 20-21 June 2014, Gert Jan van der Sman and Irene Mariani (eds.), Firenze: Centro Di, 2015, pp. 100-119.
・高階秀爾・鈴木杜幾子編著『ボッティチェッリ全作品』中央公論、2005。
・若桑みどり「ダンテとボッティチェッリ千年王国の夢」『芸術新潮』通巻615号(2001年)新潮社、52-67頁。
・Zöllner, Frank, Sandro Botticelli, Munich: Prestel, 2005.
など。
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