以前紹介したことのある「義天」の墓塔の続編です。 お話の舞台は伊佐市にある白木神社である。 応永十五年(1408)建立で、完璧な姿で残るものとしては、鹿児島県内唯一の仏教建築物だ。 遺されているのは建物だけではない。 旧本尊も御神体として残されている。 美しい観音像で、年に二日だけ、しかもわずかな時間だけ直接拝むことができる。 この由緒ある建物の背後にある墓塔が今回の主役だ。 ここまでは以前紹介して、この墓塔の主は誰なのかという結論で終わったのだが、江戸時代の人々も同
自然に還った古寺跡でひとりぼっちの庚申地蔵。 元々指定文化財だったが、当時の文化財係が発見できず、所在不明で文化財指定も解かれてしまった。 いま、この時もひとり佇んでいる。
「野ぼとけ」と言っていいのか分からない。 なぜならこの石像は実在した僧侶の姿を表したものだからだ。 彼の名は頼昌法印。 1600年代後半~1700にかけて活躍した僧侶である。 この地域でこのような像が造られているのは頼昌だけ。 しかも墓塔が3つも建立されているなど、よほど慕われていたことが分かる。 「仏」ではないが、もう「準仏」でいいと思えてしまう。 それほどの名作である。
どこを見つめているのだろうか。 地蔵菩薩なのは間違いないが、その目は仏というより人間である。 坐像だが、両足の膝が少し浮いているのも独特だ。 この石仏がある場所は神社の社家一族が眠る墓地。 「仏」の解釈が仏教と少し異なっていたのかもしれない。 何であれ、この地域を代表する名仏といってよい。
石仏があるということは、それを彫った石工がいたということである。 以前も言ったように、その個人名が明らかになることはほとんどない。 しかし、誰が彫ったのか分かる唯一の手掛かりがある。 それが「作風」だ。 作風によって「この石仏彫った人、絶対あの石仏彫った人だろ。名前は知らんけど。」と分かるのである。 この仁王像もその一つだ。 廃仏毀釈によって派手に壊されている。 さらに風化も加わり、その姿はとても痛ましい。 ただ、一体だけ頭部が残ってくれたおかげで、この周辺で一人の石工が活
幕末の鹿児島の石仏は、なぜか顔が独特なものが多い。 仏像というよりも人間に近いのだ。 この観音像も同様である。 「為菩提 梅顔院殿寒林妙香大姉」 とあり、女性の墓塔であることが分かる。 そのため顔をこの墓塔の主に似せたのかもしれない。 誰かは分からないが、種子島を実質的に治めていた松壽院が寄付していることから、日置島津家当主にかなり近しい女性だったとも思われる。 よく見たらむかしの美人のように見える。 そして主の身分も高かさもあってか、廃仏毀釈も全くの無傷で乗り越えたの
宝永二年(1705)に造立された地蔵菩薩立像である。 鹿児島に数多く残る地蔵菩薩立像の中でもトップレベルのクオリティである。 さすがに当時の人々も壊すことを躊躇したのか、全くの無傷。 それもあって、鹿児島の古寺跡界では有名な石仏だ。 何とも言えない優しい表情。 ずっと眺めていられる、眺めてしまう。 今は地衣類で白くなっているため、元の色に戻るとまた違う表情を見せてくれるかもしれない。 出来がよかったためか、背面に「永田五右衛門」という作者の名が残されている。 石工の名前
一見すると恐ろしい。 そこにあるのは石造仁王像の胴体部分だけだからだ。 しかしよく見ると造りの細かさと、その筋骨隆々さに目がいく。 出来の良さが見えると、怖さがスッと消えてしまった。 近くにあった大きなお寺の門でにらみを利かせていた仁王像。 しかし廃仏毀釈で破壊され、今は地域の小さな社の片隅にいる。 下半身なんて手水鉢にされているほどだ。 ただ、新たな役割を与えられているだけでもいいのかもしれない。 胴体と脚部を組み合わせてほしいのが本音だが。これはこれで良い。 鹿児
ちいさな不動明王である。 剣、羂索、そして火焔。 ちいさいながら、手抜きがない。 左側に文字を彫るスペースがあるが、もう読むことはできない。 しっかり不動明王なのだが、顔がかわいいのも魅力的だ。 にらみを利かせているのに怖くない。 しかしそれがたまらなく愛らしい。 滅多に人の来ない山中で、ひっそりとにらみを利かしている。 健気な不動明王。 こっそり名仏である。
ほぼ無傷の大日如来がある。 この時点ですでに貴重な仏像であることが分かる。 印もばっちり。 仏像が素晴らしいのは言うまでもないが、最も注目すべきはその台座だ。 この仏像が造立された目的などが彫られている。 それによるとこの仏像は享保七年(1722)に知元という僧侶が造ったものだという。 そしてこの意匠である。 四隅におどろおどろしい顔が彫られている。 これでは悪いものも近づかないだろう。 廃仏毀釈を乗り越えたのもうなづける。 台座を含めた全てが貴重な名仏である。
大変珍しい像である。 無傷で造りが非常に良い。 ただこれだけ状態が良いのにもかかわらず、これが何の像なのか結論が出ていない。 秋葉権現か飯綱権現であることは間違いなさそうだが、どちらも決め手に欠ける。 どちらかというと秋葉が優勢か。 これだけのものを造って年代すら刻まれてない。 不思議なものである。
鼻は削がれているが、非常に状態の良い石仏である。 光背に光背を彫る贅沢な造りで、この地域で一番の名仏だと思う。 「法橋 秀範」 「天文十一年(1542)」 とあり、ずいぶんと古い石仏があったものだなと感心する。 しかしどうも怪しい。 1500年代の石仏などほとんど見たことがないし、造りも江戸っぽい。 何気なく背中を見る。 そこには「享保十年(1725)」の銘が。 やはり江戸時代のものだったのだ。 やっぱりそうかと自分を褒めた。 ただそこで一つの疑問が生まれる。 なぜ2
古寺跡の片隅にひっそりと置かれている、小さな石仏。 おそらく観音菩薩坐像だ。 この距離でも出来の良さが伝わってくる。 しかし銘文がないため、いつのものかは分からない。 そして、この古寺跡の石仏たちはどれもほぼ無傷。 その理由もわからない。 相変わらず何もわからないのだ。 ただ、美しいことだけは誰が見ても分かる。
廃仏を乗り越えた無傷の石仏。 衣紋などが美しい。 しかしこの石仏、いやこの古寺跡にある石仏たちには謎がある。 パッと見た感じ、この像は地蔵菩薩坐像である。 しかしそのポーズが如意輪観音っぽいだ。 厳密にいうと如意輪観音のポーズでもない。 手のひらが見える。 手相まで細かく彫られ、石工の腕が光っている。 このような石仏は鹿児島では珍しい。 それがこの古寺跡だけに3体もあるのだ。 良い石仏は後ろ姿まで美しい。 間違いなく名仏だ。
とにかく大きいのである。 茶畑の端にひっそりと佇んでいるのだが、迫力がスゴイ。 高さ約190cmの庚申地蔵だ。 地方色溢れる表情。 鹿児島に地方色が溢れていない石仏の方が少ないのだが。 ぐにゃりと曲がった指で宝珠を握る。 そして巨体を支えるにはあまりにも心もとない小さな足。 アンバランスなはずなのに、アンバランスに見えない不思議な石仏である。 このあたりの古寺跡には庚申地蔵が残されていることが多いが、この地蔵は圧倒的に大きい。 誰の、どんな願いが込められているのか。
廃仏毀釈で破壊されてもなお美しい、一光三尊阿弥陀如来立像である。 鹿児島には数えきれないほどの壊れた石仏があるが、一光三尊式は非常に珍しい。 苔むした姿もまた良い。 ずっと眺めていられる。 造立年などの詳しいことは一切分からない。 非常に貴重な遺物だが、相変わらず誰も気にしていない。 それがまたたまらんのだ。