これが大人が生きる世界=社会、なのかな。
悩みは尽きない、というより、
なんだかがっかりするようなことが多いような。
多分、前にもちらっとどこかで書いたような。
あった。書いてました。
それをつくづく感じる、さいきん。
もちろん。悪い大人ばかりじゃない、ことはわかっている、つもり。
だけど。
正直、子どもの頃から、基本
『大人はきらい』 だった。
りゆうは、
本音と建前とか、色々あるのかもしれないけど、
その、ずるさ、みたいなものは
子どもながらに、子どもから見ても、端々から感じられる。
自分に都合よく解釈して話を変えたり、
面倒なことを交わそうとしたり、
見てみぬふりをしたり。
正面から向き合ったり、一緒に考えてくれたり。
それを真剣に、人としてやってくれている人と、
仕事だから仕方なくやる人の違いも、直感で感じる。
悪いことをしたら、「ごめんなさい」
自分が言われたら傷つくことは、相手にも言わない。
と、ごくごく当たり前のことを教えていた人たちが、
悪いこと、自分が失敗したこと、無責任に放り出したことを、
話を逸らし、相手の責任にして自分を正当化する。
そして、自己保身に走る。
相手のことなどお構いなし。(一部の人)
自分も社会人経験がないわけじゃないから、
大人の世界はそういうことがある、ということは
わかっていた。
国の、とある機関は、ある職員の言動、対応について指摘したことを、
約1ヶ月かけて返事をしてきた。
そのものの言い方は、
「不快な思いをさせたことについては申し訳ない。」
と。
なるほど。そういう言い方があるのか。
『職員の対応の非』等についての見解は、触れない、認めない。
これが大人の、社会のやり方、言い訳、言い方か。
ものは言いようだな、
と、俯瞰して思った。
言い訳、というのか、なんなのか…。
もはや、怒る気にもならず、
なるほどな。と、思う自分。
こういう言い換え方があるのか、
いい勉強になったな。なんて思って。
こんな(一部の)大人たちが責任のある立場で、
社会を回している。らしい。
これはある種、組織を守ったり、建前上そう言わなければならないしがらみがあったり、
社会で生きていくための『一種の能力』
なのかもしれない。
正直に生きなさい。
間違えた時、悪いと思ったことは謝りなさい。
自分がされて嫌なことは相手にもしない。等々…。
あれはいったいなんだったのだろう。か。
自分は、やっぱり大人はきらい。というか、
「大人が生きる社会は嫌い」かもしれない。
自分が大人になったいまでも、
こんな大人になりたくないな、はたくさんある。
きっと、自分のような不器用なやり方では
世の中生きていけないんだろう。
要領よく、器用に、生きる。
うまく当てはまる言葉が見つからないけれど
むずかしいな、と思った。