謝罪が責めているようになってしまうという悩み
ASDの人はコミュニケーションに困難を抱えがちです。意思疎通をする際に相手の発言の意図や背景がよく分からなかったり、自分の伝えたいことがうまく伝わらなかったり誤解されるという悩みを抱えている人も多いと思います。
今回はその中でも「謝罪の難しさ」について話します。
トラブルを起こしてしまった場合に申し訳ないと感じていてもその気持ちを適切な形で表現することが難しく、反省していても反省していないと思われることがあったりなど「自分の気持ちを正確に伝えるのが難しい」と感じる人が多いのではないでしょうか。
私は「自分が悪いと感じていても、言葉で表現すると相手を責めているような言い回しになってしまう」という所に悩んでいます。今回はその件に関して、ASDの特性を絡めて、なぜそうなってしまうのかの原因を探っていきます。
ASDと共感性について
「共感」には主に2種類あります。一つ目は「情動的共感」、二つ目は「認知的共感」です。
「情動的共感」とは、相手の感情をまるで自分のもののように感じる共感です。(悲しい人を見ると自分まで悲しくなる 等)
「認知的共感」とは、相手の状況を推測する共感です。
「情動的共感」が欠けているのが、サイコパスや反社会性パーソナリティ障害です。
「認知的共感」が欠けているのが、ASDです。
つまりASDの「他人の気持ちが分からない」は「他人の感情そのものを感じ取ることはできるが、他人がなぜその感情に至ったかを理解するのが難しい」ということになります。
なぜASDは他者視点が無かったり他責的に見えてしまうのか
この答えは「認知的共感力のなさ」にあると思います。
認知的共感力がある人は、他人がネガティブな反応を示した時に「なぜネガティブになったのか」を想像でき、自分の至らない点を理解することができます。
しかし、認知的共感力がない人の場合だと、他人がネガティブな反応を示した時に「ネガティブな反応をした」という情報だけが入ってきます。
ASDには情動的共感力はあるので、気分を害している人の側にいると自分まで苦しくなってきます。「悪かったなぁ…」と感じます。
そして相手の気分を良くさせようと試みます。ここで申し訳ないと感じている自分の気持ちを表現する時に、良くない表現になってしまうのです。
認知的共感力がほとんどないので、「気分を害している人がいるのなら気分を良くすれば良い」という直線的な考えになるのです。「“どのように” 気分を良くするか」というプロセスが欠落し、悪い気分を良い気分へとスイッチングさせる事だけが頭の中にあるのです。
「傷つけてしまってごめんなさい」
「不快にさせてしまってごめんなさい」
「そのように思わせてしまってごめんなさい」
ASDの人がこのように “相手の受け取り方に焦点を置いた謝り方” をするのは、「人がネガティブな反応をするという事は悪い事が起きている」という理解の仕方をしているからです。「自分が悪い」というより「悪い状況が起きている事を理解している」と言った方が近いかもしれません。認知的共感力が欠如しているので、具体的に自分のどの部分が悪いかは分かりません。しかし「悪い事が起きている」という事は相手がネガティブな反応をしたのを見て理解しているので、謝ろうという善意は起きるわけです。自分の頭で自分の行動を客観的に見つめることが困難なので、相手が説明する状況をそのまま当てはめて「あなたが〜だと受け取るような事をしてしまってごめんなさい」になるのです。
言い換えれば「状況から悪い事が起きていることは理解していて、なおかつあなたが良い気分でいられる事を願っているから、謝罪の言葉を示す」のです。「気分を害している人の気分を良くしたい」という善意と、「謝罪の言葉を述べることで反省の気持ちを相手に伝えられる」という知識から来る選択です。その根拠として聞いたままの言葉を伝えます。
しかしそれを聞いた相手は、ASDの人がどこが悪いのか理解していないのだから形だけに感じたり、謝る原因を自分の受け取り方にされているのだから「悪いのは向こうなのに、こちら側が悪いと言われた。自分は何も悪くなくて、こちら側の受け取り方を直せと要求している」と感じて、その謝り方に対してますます怒ることになります。
「あなたが気分を害しているのなら、気分を良くしてほしい」と願うことは「気分を害さず、良い気分に切り替えろ」という指示になってしまうのです。
言い換えれば「誰かが気分を害することは悪いことだ」→「それを見た私は罪悪感を感じるので、その人の気分を良くする義務がある」→「悪い気分にならないで、良い気分になって(ストレートな表現)」でしょうか。
ASDはこれを善意だと感じている一方で、相手側は悪意(責任転嫁や立場の逆転など)として捉え、コミュニケーションが噛み合わなくなります。
立場が逆転する問題は自閉症に見られる「“行く・来る” の混同」と同じ仕組みです。自閉症的な特性を持つ人(ASD)は視点の切り替えが苦手なので「行く」と「来る」を同じ現象だと捉える(自分の所に来ることを相手が「行く」という表現をする→「来る」というものは「行く」とも呼ばれると学習する)という成り立ちです。
謝罪するASDは「誰かをネガティブな気持ちにしたのだから私は悪い事をしている」という情動的共感から来る反省をしていますが、それは言い換えれば「相手がネガティブな気持ちにならなかったら自分は申し訳なく思わない」だから責任の所在を相手の受け取り方にしているとも言えます。
情動的共感から来る反省は「悪く受け取る人がいなければ悪人は出ない」という “受け取り方の問題” になってしまうのだなーと、考えていて思いました。
認知的共感力が全くなく情動的共感のみで成り立つ世界は「感情の伝染」で成り立っています。ASDとHSPを併発する人もいるように(※ASDとHSPは特徴が正反対だと主張する人がいますが、ASDは認知的共感力が低い特性であり、HSPは情動的共感力が高い特性なので兼ねることは可能です)、情動的共感性の高いASDは「他人の感情状態がこちら側にも生じているように感じられること」に基づいたコミュニケーションを行うので “立場の混同” が起きやすいです。
これは「気分を害した誰かを見ると罪悪感が生じる」という感情の仕組みです。誰もが気分を害さなければ、誰も悪くありません。気分を害することで、周囲を悪者に仕立ててしまいます。気分を害した人のケアは当たり前であり、気分を害した人を見放すのは思いやりのない人です。
「反省」と「後悔」は紙一重であり、誰かが気分を害することを「やらなければ良かった」と感じることです。それは他人を傷つけたくないという利他主義と、自分が傷つきたくないという利己主義が一つになっています。なぜなら情動的共感によって、他人が傷つくと自分も傷ついてしまうから。
ASDの共感や倫理観は、このような原則に基づいているのではないでしょうか?
この考え方から抜け出せないことが、私のコミュニケーションへの苦手意識や対人トラブルへの極端な回避志向の原因になっていると考えられます。この悪循環から抜け出すには認知的共感力を身につけることが必要です。
正直、私自身では認知的共感力の身につけ方がサッパリ分かりません。なのでずっとグルグル悩みながら、対人恐怖(人を傷つけてしまうのではないかという恐怖および自分が傷つくのではないかという恐怖)に陥っているのだと思います。
ASDは他者視点を持つことやメタ認知が苦手だと言われています。
それを克服するために、現在様々な福祉サービスを探したりしています。近いうちに(もしできればだけど)認知行動療法も受けてみようかな〜と思っています。
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