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カードを切って生き抜く

「カード師」に出会うまで

ある日、珍しく原宿なんて歩いていたら、見たことのある人が佇んでいた。芸人の又吉直樹さんだった。彼はニット帽をかぶって、全体にお洒落な黒っぽい服装でそこに立ち、原宿を歩く人たちを、ただ見つめていた。力強い視線が意外だった。そのときに少し、彼に好感をもった。

また別のある日、私は又吉さんの新書「夜を乗り越える」を買ってみた。その本の一番最後に、中村文則さんのことが書かれていた。彼にとっては特別な作家、という一文で、その本は締め括られていた。

一度、又吉さんの本棚をテレビで見たことがあった。そこには私の大好きな作家の単行本が、びっしり並んでいた。又吉さんとは趣味が合うはずだ。その又吉さんがそんなに特別な作家と言うなら、読んでみようかな。

そう思ったのはたぶん、2020年の5月か6月のことだった。家で朝日新聞を取り始めて、ちょうど「カード師」が掲載されているのを知り、ちょっと運命を感じた。作品を読み始めたのは〈こいぬ座の神話〉あたりで、あらすじも登場人物もわからなかったけれど、すぐにこの小説の世界観に引き込まれた。

特に印象的だったのは「自分が現実と思っていることが、本当はそうではないかもしれない」という可能性についての話。すごい作家に出会えたという喜びに浸りながら、興味深く読んだことをよく覚えている。

ただし私はアホなので、1日分の「カード師」を読んで、翌日に内容を忘れていることがあった。なので、一週間分切りためて、休日に読んだ。しばらくは楽しい休日が続いた。

悪魔と鬼が同居する

先月に「カード師」の単行本が発売されてやっと、はじめから読むことができた。この本には色んな魅力があるけれど、私は悪魔や鬼についての描写に引き込まれた。それは悪魔も鬼も私の中にいる、と感じるからだ。

例えば、朝ごはんを食べているとき。テーブルに蟻を見つけて即座に潰している。あるいは、街中でマナーの悪い人に出会ったとき。気がつけば攻撃的な気持ちになっている。道で寝ているホームレスを見たときもそう。意識することもなく、嫌悪感を抱いている。

その攻撃的な気持ちや嫌悪感は、もっと大きくなれば「殺意」になりかねないものだと思う。とっさに取った行動や、抱いた感情が悪いほうに向かうほど、私は悪魔や鬼に近づいていく。

見にくい世界と向き合う

殺生する。人を傷つける。人を傷つけることで自分を傷つける。誰かを恨む。呪いたくなる。そんな自分のことを、直視したくない。そういう自分は「見」にくい(=醜い)から。

自分が醜いことはわかっているけれど、その醜さについて直接考えるのは、すごくしんどい。だから私は「カード師」をもう一度読んで、どうしたら鬼にも悪魔にもならずに生きられるか、考えてみたいと思う。この作品には、私たちが生きるためにどんなカードを切るべきか、ヒントがたくさんつまっている。 

参考文献と補足等

※又吉直樹「夜を乗り越える」小学館

※二つ目の見出し「悪魔と鬼が同居する」は、向井秀徳さんの「ダイニング・キッチン」の歌詞から引用しました。

※見にくい=醜い、という考え方は、精神分析医の北山修先生のご講演から影響を受け、引用しました。以下の書籍に、少し記載されています。

※きたやまおさむ「帰れないヨッパライたちへ 生きるための深層心理学」NHK出版

※いつも素晴らしい作品を書いてくださる中村文則さん、それを届けてくださる方々に、心から感謝します。

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