「これで正解だったのかな」から始まるモヤモヤ殴り書きnote
ああ。私の就活はこれで良かったのだろうか。
本当に、エンジニアになると決めて正解だったのだろうか。
こんなに難しいことばかり、知らないことばかり。
勉強しても全然頭に入ってこない。
10月と11月に控えた資格試験に向けて、夏頃から勉強してきた私。
先日受けたWeb模試で、合格点に全然満たない点数をとってしまった。
資格とは「基本情報技術者試験」のこと。会社でも昇格に必須とされている資格である。試験は午前試験・午後試験があり、午前試験をまずクリアしないと更に難しい午後試験を受けられない仕組みになっている。
その簡易だと言われる午前試験でさえ、合格点がとれない状況に落胆していたのが昨夜のことだった。
勉強しているのに、どうしてこんなに結果が出せないんだろう。
やっぱり、一発合格なんて無理な話だったんだ。
勉強すればできるなんて話は、私には当てはまらないのかも。
就活が終わってから、私の尊敬する社会人の方に「今しかできないことをするんだよ」とアドバイスをいただいた。そのうえで、過ごしてきた期間。
この試験勉強にかけた時間や密度が長いのか薄いのか分からないけれど、やってきたことは確か。
では、その試験勉強は「今しかできないこと」だったのだろうか。
どうせ社会人になってから絶対に取らなくてはならないのに、少し早めに勉強を始めた。けれど試験に合格できなかったら、それが無駄になってしまうような感じがする。これじゃ旅行や遊びを満喫している人たちの方がよっぽど有意義な過ごし方をしてるじゃないか。
私の過ごしてきた時間に、価値はあるのだろうか。
…と、ここまで殴り書きしてきて分かったことがある。
あ。
「今しかできないこと」の価値、人と比べて決めようとしちゃってるけど、いいんだっけ、これで。
そもそも一人一人に流れる時間の価値は相対化できるものじゃない。
昨夜テレビでやっていた鬼滅の刃の映画。そこで煉獄さんも言っていた
「君と俺とでは価値基準が違う」ことは、恐らく時間の価値においても通ずる概念だとも思う。
確かに海外旅行や国内旅行に沢山行きたかったし、その娯楽に使える時間が「学生のうちぐらいしかない」と言われるのも認める。
でも、大人になってから行く旅行にも、きっと「今」じゃ得られない価値が生まれるというのも本当で、きっとそれは逆も然りなのだ。
大人になってから嫌でもする「勉強」を、まだまだ未熟な時期に遊びの時間も削ってやっている、という意味で、「今しかできない」という概念で括られない価値がありそうにも思えてきた。
そう考えると、不合格だって、合格だって、もうなんだっていい。
知識が身につく早さはゆっくりだけど、向き合おうとしてるのは事実。
無意味な時間じゃない。これも価値があるんだ。
時間と体力のある限り、やっぱりあがいてみようかな。
この時間に価値があるかどうかは、未来の自分にお任せするけれど、たぶんマイナスにはなってない。というより、マイナスかどうかを比べることもできない。「ああしてればよかった」と言うのは、『違う時間を歩む第二の自分』が実在しないと言いようがないことであり、たいていの場合は後悔など負の感情の居場所を探す行動他ならないから。
YouTubeやInstagramでインフルエンサーがあげる「QOLあげてこう」「優雅な〇〇ルーティン」とかいうキラキラした動画を見ては
「うわあ、充実してるなあ…こんな時間の使い方できないし、意味ある時間過ごせてるのかな」と悩んでしまうことはしばしばあるけれど、
大丈夫。どうしたって、どんな時間にも意味は生まれてしまうのだ。
グダグダしてても、”グダグダ充実時間”。
仕事も休みもどっちつかずの休日も、”どうしても少しは頑張っちゃう自分って、やっぱり偉いかも?な休日”。
どんな時間や日常にも、テーマが生まれちゃうんだ。
そう考えていきたい。また、同じ悩みや不安を抱えた人にも、そんな気楽な考えが届いてくれたら嬉しい。
今日もまた、お疲れ様でした。
では。
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