紫陽花の花嫁
もうすぐ梅雨も明けるというのに、ぐずぐずしたミルク色の雲が空を覆っている。
今にも降り出しそうだ。
──こんな空を、いつか、どこかで見たな。
清花はふと思った。
胸の中がどろりと濁る。その感情は、記憶は、開けてはいけない箱に入っているような気がして……。
彼女は、違うことを考えることにした。
清花は、居間の中に目線を戻して炬燵に入った。テレビでは今日の感染者数が報道されている。昨日よりも少し、増えた。
「話しておかなくちゃいけないことがあるの。……一緒に来てくれる?」
清花は、華奢な薬指に今しがた嵌められたばかりの指輪にそっと触れると、泣きそうな顔で笑った。銀色のリングには、薄紫の小さな宝石が散りばめられており、まるで、薬指に紫陽花が咲いているかのように見えた。
ふたりは、電車をいくつも乗り継いで、山の中腹にある無人駅に降り立った。そこから南西の方角へしばらく歩き続けると、舗装された道がいつしか獣道に変わった。さらに藪をかきわけるようにして進み、山奥にぽつんと佇む小さな家が見えてきた。
いつから人が住んでいないのか、すっかり荒れ果てている。
家の周りには背の高い夏草がいくつも生えており、まるで来る者を拒んでいるかのようだ。
一方、家へ続く道を縁取るように、規則正しく、こんもりと茂った紫陽花が植わっているのが印象的だ。濃淡の違うさまざまな紫の花が咲き乱れ、夏草たちとは裏腹に、その空き家へと誘っているかのようである。
「──虹のにおいがする」
清花はぽつりとつぶやいた。
糸のような雨が落ちてくる。地面にぽつりぽつりと染みをつくる。しっとりと濡れて黒くなった土のにおいがむわりと立ち上っていた。
ところどころに鏡のような水たまりが見える。
ふと、ぬかるみに足を取られたのか、清花の身体がふらりとかしいだ。こんもりと茂った紫陽花の手前に、まるで道と花との境界のように続く細長い水たまりがあって、清花の華奢な身体は、その中へ落ちていこうとしていた。
婚約者の青年は、顔色をなくして清花の腕を掴むと、自らのほうへと抱き寄せた。高い位置で二つに結って、赤色のリボンをつけた清花の黒髪が、ふわりと揺れた。
「ありがとう、氷雨くん。水たまりに落ちちゃうところだった」
清花はいたずらっぽく笑いながら、水たまりを指差した。水たまりの中では、空は晴れており、虹が架かっていた。ぽつぽつと落ちてくる雫が、青空の上に波紋をつくっていった。
清花は、青年のひんやりとした頬にそっと手を添える。彼は美しい。すっと通った鼻筋にきゅっと結ばれたくちびるは、テレビに出てくる人のような造作だ。それでいて清花の父にそっくりなその顔は、──父と瞳の色だけが違った。
「五歳の時まで住んでいたのがこの家。──氷雨くんも来たことあるよね」
彼は少し考え込む素振りを見せて、それから頷いた。
「あなたが遊びに来た少しあとのこと。わたしの口からはちゃんと話したことがなかったでしょう? 結婚する前に、知っておいてほしいの」
清花は、赤く潤んだ目をして、朽ち果てた家を見つめた。
「あれは、ちょうど今と同じくらいだったと思う。──こんなふうに紫陽花がたくさん咲いていたから……」
彼女はそうして、目の前の婚約者、氷雨に切り出したのだった。二十年前に、彼女の身になにが起こったのかを。
清花は、両親と一緒にこの山奥の家に住んでいた。
父は怪奇小説を書く作家で、気難しく人嫌いだが、俳優のように整った顔をしていた。切れ長の一重の瞳は涼やかで、すっと通った鼻筋にきゅっと結ばれたくちびるが、瞳の美しさを引き立てていた。
一方の母は、いかにも気立てがよさそうな、大人しげで平凡な容姿だった。のっぺりとした凹凸のない卵型の顔に、ややまるみのある団子鼻。茶色の瞳は奥二重で、小さめだが優しげな垂れ目だ。
二人は結婚を親に反対されて駆け落ちし、若くして清花を産んだ。そして、山小屋に身を潜めるようにして暮らしていた。
この山小屋にやってくる人などほとんどおらず、遊びざかりの清花にとっては、やや寂しい子ども時代であった。
定期的にやってくるのは、父の担当編集である刃金智史くらいのものだ。
「先生の調子はどうですか?」
ダイニングには、父が丸太を切り出して作った、四人がけのテーブルセットが置かれている。その窓際が刃金の定位置だった。
彼はときには原稿の催促に、また別なときには打ち合わせにと、週に一度は顔を出していた。来るのも帰るのも大変な田舎の山小屋に根気強く通い詰めていた。
そして、母がやかんで沸かしておいた麦茶を、ごくごくとおいしそうに飲むところまでが見慣れた光景であった。
刃金は、三十代半ばの小柄な男だ。
短く刈り上げられた髪型と、いつ会っても同じサーモンピンクのポロシャツばかりが印象に残る。自らの見た目には無頓着な性格だったのだと思う。平たい鼻に薄いくちびる。一見すると凡庸で、人好きのする顔をしていた。
だが、その目だけは二重でぱっちりと大きく、ぎらぎらとした光を湛えており、清花はなんとなく彼のことが苦手だった。
刃金は、いつも清花に小さな土産を買ってきてくれる。
それはチョコレート菓子だったり、子ども向けのペンダントだったりした。
その日の土産は、小さなオルゴールだった。
「開けてみて」
刃金がにこにこして言う。
オルゴールの外側には、まるでお姫さまの宝石箱のような美しい装飾がされている。それなのに、なぜだかそこに粘っこいものを感じて、清花は気分が悪くなった。
「ほらほら」
刃金は、清花の手にオルゴールを押しつけた。
清花は助けを求めるように母を見た。母は清花の気持ちに気づくことなく「素敵ねえ」とのんきに笑っている。
無言の圧に負けて、清花はついに、オルゴールの蓋に手をかけた。
カチリ。音がして蓋が開いた瞬間、その中から、煙のような黒いものがもくもくと飛び出すのが見えた。
『みぃつけた』
頭の中に響いたそれは、声だったのだろうか。
清花は驚いて、あたりを見回した。
「清花ちゃん?」
「あら、どうしたの。顔が真っ青よ」
気の所為だったのだろうが、なんとなく居心地が悪くなり、書斎に缶詰めになっていた父に握り飯を届けることにした。
「刃金さんが来てるよ」
清花が言うと、父はぴくりと眉を上げた。
「──まだ締め切りには早いと思うのだが」
「そうだね」
父もまた刃金のことをなんとなく好きになれないのだろうと、清花は幼いながらに感じ取っていた。
清花は一歩ずつゆっくりと足を前に出し、慎重にお盆を運ぶ。
その上には握り飯の乗った皿と、野菜をとろとろに煮込んだスープ、そしてきんきんに冷やした麦茶が乗っている。
ここまで運んでくるのも、清花のちいさな手と、力のない腕ではひと苦労だった。
何度も階段に置いて休憩し、持ち直して運んでくるのは、とても神経を使う作業だった。
「パパ」
清花が声をかけると、父は慌てて机の上のものをざっと端に寄せた。消しゴムのかすがぽろぽろと床に落ちる。
清花はきれい好きなたちなので、その様子に眉をひそめた。
しかし父は、母の手製のランチョンマットを出してきて、古びた木の机にうやうやしく敷いた。
握り飯は、いり卵を混ぜこみ卵味のふりかけを外側にまぶしたものと、サイコロ状に切ったチーズとおかか、だし醤油を混ぜたものとの二つ。
「さやかもね、いっしょにつくったんだよ」
父は大きな手で、わしゃわしゃと清花の頭を撫でると、片手で握り飯を頬張りながら、小説を書こうとふたたび机に向き直った。
一生けんめいこしらえたものだったから、もっと味わって食べて欲しくて、清花は頬をふくらませて父の背中を恨みがましく睨んだ。それに気づいたのか、父が清花のほうへと向き直る。清花は思いきり舌を出して、書斎を出た。
清花が降りてくると、刃金が、母の手製の羊羹を口に運びながら、ひらひらと手を振った。母もにこにこと笑っている。
なぜだか清花はいやな気持ちになった。いっしょに作った羊羹を、先に刃金に出されていたからだろうか。
そのとき、あるときの父の言葉が脳裏をよぎった。
「──誰にでも愛嬌を振りまくんじゃない。取り返しがつかないことになるぞ」
いつだったか父が母をそう叱っていた。清花は、大好きな母の唯一好きになれない”癖”を、冷めた目で見つめていた。
ふたたび居づらくなって、外に出ることにした。そろそろ水やりの時間だったというのもある。
家に続く道には、紫陽花がこんもりと植わっている。これは自生するものではなく、園芸種であった。この家に越してきたとき、両親が一株ずつ植えたものだという。
「家の"鬼門"に紫陽花の花を植えると、魔除けになると刃金が言ってね」
家の周りにはさまざまな植物があったが、清花はこの紫陽花の道がとりわけ好きで、毎日欠かさず水をやっていた。特に、こんもりと咲いた青やピンクの紫陽花たちの陰に、ひっそりと控えるようにして咲く、紫色の小さな株に、なぜだかとても惹かれた。
「鉢植えじゃないのだから、雨だけでも十分よ?」
母はころころと笑いながらそう教えてくれたのだが、清花は小さなブリキの如雨露で水をやるのをやめなかった。
「山の中で暮らすのなんて、もういや!」
その日、清花は癇癪を起こしていた。母はおっとりと笑って、料理をしていた手を止める。
「どうしていやなの?」
清花は、一時間以上かけて山のふもとの幼稚園に通っている。だが、六月になってもまだ馴染めずにいたのだ。それは、この家に住んでいるのが理由だと彼女は信じていた。
田舎の小さな幼稚園だから、生徒数も多くはない。ほかのクラスメートたちは、園が終わったあとに公園に寄って、一緒に遊んだりしていたのだ。いつの間にか組み分けのようなものが出来上がっており、そこに入り込めるような社交性を清花は持ち合わせていなかった。
それに、山にはよくないことがたくさんある。大きな虫がたくさん居るし、夜は真っ暗で怖い。
清花は、そのようなことをつらつらと捲し立てた。母は静かに根気よく聞いていた。
「そっか。確かに、清花には少しつまらないかもしれないね」
「ぜんぜんつまんない! マミちゃんみたいに、大きなマンションに住みたい」
「──そうね」
母はぼんやりと窓の外を見た。ひと通り吐き出した清花は満足して、自分用のエプロンを身につけ、母の隣に並んだ。
この間の雨の日に、母が縫ってくれたものだ。
雨の午後はいつも、母がミシンを踏み、清花はちくちくと小物を縫う。エプロンは、白い布を紫大根の皮の煮汁を使って染めてから縫ったもの。腰の辺りできゅっとリボンを結ぶのがおねえさんっぽい、と、清花は気に入っていた。
母は家庭的で、作れるものは何でも手作りする人だった。
この時期はいつも、家の外に生えている梅の実を取ってきて、水につけておき、一つずつ爪楊枝でへたを取って、氷砂糖と交互に詰めていく作業に精を出していた。清花もその作業は気に入っている。
とくに、宝石のようにきらきらと透き通った氷砂糖を、ぽとりぽとりと落としていくのはわくわくした。
いつものように紫陽花に水やりをしていたときのことだった。
ひげを蓄えた厳しい顔つきの老人と、中性的な美しさを持つ少年が、藪をかき分けるようにしてやってきた。途中で道に迷ったのだろう。老人の頭にはいくつも葉が乗っており、少年は泣きべそをかいていた。
老人は清花を見ると、泣きそうに顔を歪めた。それから清花の目線になるようにしゃがみ「父の父だ」と名乗った。
少年は又従兄弟で名を氷雨というらしい。目元が父と似ている。少女のように優しげな容貌をしているのに、深い夜のような黒い瞳が印象的だった。
両親と話があるからと、祖父は家に入り、清花は庭で氷雨と遊ぶことになった。
「ひさめくんは、何歳なの?」
「ぼくは、四歳」
氷雨が答える。
「じゃあ、五歳だからさやかのほうがお姉さんね」
「──ぼ、ぼくだって年中さんだぞ!」
氷雨は泣き虫なたちらしく、顔を真っ赤にして、目に涙をにじませながら言った。清花はころころと笑って氷雨の手を引き、庭を案内した。
自然には慣れていないようで、葉の陰から、三センチほどもあるコガネムシが顔を出したときなど、悲鳴を上げてひっくり返ってしまった。
その様子が面白くて、清花がころころ笑うと、彼はふたたび顔を真っ赤にした。
氷雨は、東京からいくつも電車を乗り継いでやってきたのだという。
祖父のデジタルカメラで道中を撮ったというものを、たくさん見せてもらった。降り立った駅は、山の中腹にある無人駅。切符を入れる箱が置いてあることに彼は驚いたそうだ。そこからしばらく歩く。舗装された道がいつしか獣道に変わった。さらに藪をかきわけるようにして進み、山奥にぽつんと佇む小さな家──清花たちのこの家が見えてきたところまでが、カメラにおさまっていた。
清花は、この山からほとんど出たことがないので、見るもの全てが新鮮で、──それでいて、少し意地悪な気持ちにもなった。特に、彼が暮らしているという東京の風景が。大きなマンション、高いビル。
その中には、彼が先ほどの老人たちと暮らす家も写っていた。 畳の上には大きなこたつが一つ。その中で皆、思い思いにくつろいでいる。
「なんだか不思議なにおいがする」
氷雨は、形の良い鼻をくんくんと動かしながら言った。
「雨が降る前のにおいよ。パパがね、そういうのを虹のにおいって言うんだって、教えてくれたの」
「虹のにおい?」
「うん! なんだか特別な感じがしない?」
清花が聞くと、氷雨はぶんぶんと首を振ってうなずいた。
はじめはむすっとしていた氷雨だが、木の実を集めたり、花かんむりをつくったり、かくれんぼをしたりしていたら、いつの間にか笑顔になり、ふたりは日が暮れるまで仲良く遊んだ。
「──清花、みいつけた」
母が歌うように言った。
それから、こんもりと茂った紫陽花の陰に、浅く穴を掘って隠れていた清花を抱き起こした。
「──氷雨くん、帰っちゃったわよ?」
「ええ! かくれんぼの途中なのに……」
「もう帰らないと、電車に乗れなくなっちゃうのよ。それに、どうしても清花を見つけられないって、泣きながら私たちのところに来たわ」
本当に泣き虫なのだなあ、と、清花は少し呆れた。
母は清花を立たせると、背中についた土をぱんぱんと優しく払ってくれた。
清花はふいに悲しいような切ないような気分になり、母に抱きついた。
「あら、なあに?」
母はくすくすと笑い、清花に頬ずりをする。どうしてだかわからないけれど、涙があとからあとから溢れてきた。
今思うと、あれはきっと、この生活が終わってしまう予感だった。
「清花は、──この家で暮らすのは嫌か?」
ある日、父が書斎に清花を呼んで訊いた。いつになく真剣な目をしており、清花は身構えた。
「こんなふうに山奥に隠れ住んでいるのには、もちろん、理由があるんだ」
父の言葉に、清花は目の前がまっ暗になった。じつは、幼稚園で、同じクラスの男の子にからかわれたことがあるのだ。まさかそれが本当だったなんて。
「──もしかして、パパはどろぼうなの?」
清花が言うと、父はきょとんとした顔をしている。
「ち、ちがうちがう! そうじゃないんだ。ママのためなんだよ」
父はしどろもどろになって言った。
「──いまの清花には詳しくは話せない。でもね、世の中には不思議なことがたくさんあるんだ。おばけとかもそうだよな。……そういう類いの話でね、ママを守るために、こうして人里離れたところに住んでるんだ」
「ママを守る?」
父は、清花の肩を掴み、まっすぐな目を向けた。
「ああ。──清花には苦労をかけるけど、どうか、このままここで暮らさせてほしい。でも、もう少し大きくなって、どうしてもこんな山の中はいやだ! ってなったときは、じいちゃんの家で暮らすという選択もできる」
清花はむっとした。
「パパやママと離れるくらいなら、山だっていいよ」
清花がそう言うと、父は泣きそうに顔を歪めて、それからくしゃりと笑った。
それは、ミルクのような色をした雲が、空を重たく覆い尽くしている午後のことだった。
清花は居間でテレビを見ていた。
アニメじゃないのでよくわからなかったが、男の人が女の人に指輪を渡して、結婚して欲しいと話していた。女の人は、両親が「じこでなくなって」、子どものうち男の人の家に引き取られていた。けれども、大きくなるにつれて、お互いに思い合うようになったようだ。
それから結婚式のシーンになる。清花も少女らしく、ウェディングドレスに憧れた。
自分の結婚式ではきっと、ピンク色で、フリルやリボンが沢山ついた、お姫様のようなドレスを着よう。そう決めた。
「ーー清花。かくれんぼをしましょう」
書斎にお茶を届けていた母は、行く前と同じように湯のみのふたつ乗った盆を持ったままで、戻ってくるなりそう言った。
その声は震えていて、なにか尋常ではないことが起こったのだとわかった。
母はきょろきょろと辺りを見渡し、勝手口から清花を抱えて飛び出すと、家に続く道の紫陽花の、特にこんもりと茂った場所に清花を隠した。
以前、清花がかくれんぼをしていた場所だった。
「ママ……」
清花は不安になり、母の袖を掴んだ。
母は真っ白な顔をしており、そんな表情を見たのははじめてで、よけいに胸がどきどきした。
清花が言うと、母ははっとしたようにくちびるを上げ、清花の額にそっとキスを落とした。
「いい? ママが見つけるまで、絶対にここから動いたらだめよ?
ほかの誰が来ても、絶対に動かないでね」
そう言うと母は、紫陽花のそばにできた水たまりを飛び越え、急いで家に戻っていった。
遠くのほうで悲鳴が聞こえ、清花は怖くなって耳を塞いだ。それは、父の声に似ていた。
どれくらい経っただろう。
清花は、地面に横たわり、紫陽花の葉を透かして空を見ていた。朝方の雨で地面は湿っていて、布越しに伝わる冷たさがとても不快だった。
お気に入りのワンピースはきっと泥だらけになっただろう。
「さやかちゃん? どこかな?」
清花を探す、刃金の声がした。清花ははっと身を起こそうとしたが、母の言葉を思い出し、ぴたりと動くのをやめた。
「さやかちゃん……! パパとママが大変なんだ。──まさか君まで……?」
その声色は、心から案じているように聞こえて、不安でいっぱいだった清花は、思わず声を上げそうになった。
すると、誰かに口をふさがれ、そのままとろとろと意識が沈んでいった。
「まぁだだよ」
誰かは口元にしいっと指を当てながら言った。清花が最後に見たのは、紫陽花色の光がちらちらと煌めく、美しい瞳だった。
「──あとのことは、あなたも知っているでしょう? パパとママが殺された。刃金にね。もしあのとき、わたしがかくれんぼをやめていたらと思うと、ぞっとするの。……一体誰が、助けてくれたのかしら」
そこまで話し終えると、清花は当時の恐怖をまるで昨日のことのように鮮明に思い出し、紫陽花に囲まれた道の真ん中で、氷雨に抱きついてしまった。
事件のあと、清花は祖父に引き取られ、又従兄弟の氷雨とは、兄妹のように育ってきた。
初めて会ったときはたしかに清花のほうがおねえさんだったのに、いつのまにか、氷雨のほうがたくましくなっていた。そしていつしか氷雨をひとりの男性として愛するようになり、幸いにも愛されて、二人は婚約したのであった。
「雨、降らないね」
清花はてのひらを上に向けて言った。
「虹のにおいがしたあとは、きまって雨が降るのよ。降ったあとのにおいとは違う。
降る前の予兆なの」
それから彼女は、ぬかるんだ地面にしゃがみこみ、水たまりにじっと視線を落とした。氷雨が慌てて彼女を引き上げる。
「ーー虹があるわ」
その目は、水たまりのなかの虹を見ていた。
つつがなく結婚式を終えた。
とてもかわいいピンク色のドレスを着たけれど、参列者は祖父だけだった。相変わらず屈強だった。
ふたりは仲睦まじく、何年も何年も時を重ねていった。
そうして、五十年近い月日が流れた。
「また、あの家に行ってもいい?」
その朝、清花は尋ねた。氷雨はほほ笑み、頷いた。二人はいつかと同じように、電車をいくつも乗り継いで、山奥の小屋にたどりついた。
ミルクのような色をした雲に、空が覆われていた。虹のにおいがした。
紫陽花は以前よりもさらにこんもりと茂り、家に続く道は子ども一人が通れるくらいの幅にまでせばまっている。
その向こうにかすかに見える、清花の家のあった場所には、建物などなく、ただ背の高い夏草が生えているだけだった。
「ねえ、氷雨くん」
清花の声に、氷雨が振り向いた。清花はその端正な顔に、不意打ちでキスをした。
氷雨がきょとんとしている隙に、清花は跳んだ。高い位置で二つに結った黒髪が風になびいた。その姿は、母親が死んだ時の年齢で止まったままであった。
水たまりの中にばしゃりと着地する。水しぶきがきらきらと高く舞った。その水滴の一粒ひとつぶに、虹が映っている。
父と同じ顔をした氷雨。
その表情が抜け落ちている。紫陽花の花びらのような、薄い紫色の瞳がちらちらと揺れていた。
「ありがとう、わたしのお花さん。だいすきだったよ」
それだけ言うと、清花はぱちゃりと水たまりに溶けるようにして消えた。
梅雨が明けた。
空の色は急に濃くなり、それに比例するようにむわっと暑くなった。
森氷雨は、すっかり重く感じるようになった身体をなんとか動かして、川沿いの砂利道を歩いていた。夕空は優しげな薔薇色だった。歩くたびにぽたぽたと落ちてくる汗を手ぬぐいで拭きながら、一歩ずつ進む。
川向こうには、大叔父にあたる人の墓があった。
一人息子も孫も失った彼の墓は、こうして氷雨が来ないでいると、あっという間に夏草に覆われてしまう。氷雨は、ぷちぷちと草を抜き、墓石に冷たい水をかけると、持参した線香に火をつけた。くすぶったにおいが煙に乗って、空へと上がっていく。
「じいちゃん、──ようやく清花ちゃんが見つかったよ」
又従姉である森清花が姿を消したのは、彼女が五歳の頃だった。
一度しか会っていないが、父親譲りの美しい顔に似合わぬ、お転婆で強気な少女だった。それでいてどこか夢見がちなところもあり、両親のような家庭を築くのが夢だと話していた。
あのとき、かくれんぼの前に、彼女はにこにこと笑って「おおきくなったらけっこんする?」と氷雨に訊いたのだった。
氷雨はその意味がよくわからず、とりあえず頷いていた。
両親を殺されたあとも彼女が見つかることはなく、犯人であった担当編集の男でさえ、彼女の姿を見ていないと首を振っていた。
氷雨は今までずっと、それが奴の嘘だと思っていた。
だが、数日前に連絡があり、考えが変わった。
あの山小屋のそば、紫陽花の茂っていた場所から、小さな遺体が見つかったのだと。
埋められていたような痕跡も動かされた可能性もなく、ただ、隠れるようにしてそこにあったという。
そんなことはあり得なかった。
共に遊んだあのとき、かくれんぼで彼女を見つけられなかった氷雨は、あとから電話で彼女の母親に清花の隠れ場所を聞いていたのだ。
だからこそ、清花が消えて、真っ先に探したのは紫陽花の茂みだったのだから。
今はもう唯一の親類として確認によばれた氷雨は、そのとき、大叔父の話を思い出してぞっとしていた。
「私が息子の結婚を許さなかったのは、幸せになれないと知っていたからだ」
事件の後、大叔父は仏壇に手を合わせながらそう言った。その目からはいく筋もの涙がこぼれていた。屈強な体つきと厳しい顔には似合わない、愛情深い人であった。
「由花子さんの実家は、昔からいわく付きだった。魔性だと。なんでも魅入ってしまうのだと」
「──叔父さん、そんなの、迷信に決まっているじゃないか」
父が呆れたように否定した。
だが、大叔父はふるふると静かに首を振る。
「いいや。現に、あの家に生まれた娘たちは、短命な者が多いのだ。男に害されて命を失うものが後を絶たない。しかも、何代かに一度は、神隠しも出ているのだよ。──だから反対していたのだ。……見つからぬ清花もまた、なにかに魅入られてしまったのだろう」
氷雨にとって伯父にあたる清花の父親は、無残な死を遂げていた。一方の伯母のほうは、伯父の血にまみれている以外は目立った外傷もなく、眠るように事切れていたという。
まるで伯父を守るように、その上に折り重なって倒れていたと聞いた。
そして、犯人の刃金は、事件のあと、憑き物が落ちたかのように変わったという。彼は憔悴し、自らの行ないについて混乱し、罪の重さを悔いて何度も命を絶とうとした。
刃金は「信じてもらえないかもしれないが」と前置きした上で、週刊誌のインタビューを受けている。それによると、いつからか、頭の中に声が響いていたというのだ。……「あの女を手に入れろ」と。
氷雨は目を閉じた。熱いものが頬を伝っていく。
このように長い時間を生きてきて、だんだんとゆるやかになってきたはずの感情の起伏が、どうやら今日はおかしいらしい。彼はそんなふうに分析した。
目の当たりにした清花の遺体が、まぶたの裏に焼き付いている。
七十年経っても朽ちておらず美しいままで、外傷もなかった。眠っているようにしか見えないその顔は、夢見るようなほほ笑みを浮かべていた。
そして、薬指にはぶかぶかの、紫陽花のような宝石のついた指輪を嵌めている。発見時、その手にまるで追いすがるように、紫陽花の茎が絡みついていたという。
氷雨は、七十年前には言えなかった言葉を、清花にかけた。
「清花ちゃん、みぃつけた」
それからしばらくして、清花も大叔父と同じ墓に入った。
翌年もまだ氷雨は生き永らえていた。
ぜえぜえと息を切らしながら墓参りをし、あと何度ここに来られるだろうかと考えた。ちょうど雨上がりで土のにおいが立ち昇っていた。あちらこちらに水たまりが点在している。
なんとか森家の墓にたどり着いた氷雨は、ふと、墓の周りの雑草がほとんど生えていないことに気がつく。
その代わりに、去年はなかったはずの紫陽花が、まるで墓を守るように、小さくまとまって咲いていた。