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散らかってるから、レモンケーキを焼く。

1週間ぶりに自分ひとりのために外に出たら、空が深くなっていた。

香川の空はたいてい晴れていて、雲一つない快晴の日も多いのだけれど、その日はひつじ雲がふわふわと空の高いところを群れになって歩いていて、秋の訪れを感じた。

カフェの片すみで、時折外を眺めながら仕事を終えたわたしは、昼ごはんをつくるために家に帰って、ため息をついた。


床に放り出された新幹線や機関車。
青いレールがソファの下やら棚の下やらから顔を出している。

ちぎった折り紙が雪のようにばらまかれているし、本も雑誌も床のあちこちに落ちている。

「これを拾うの、……怖いな」

数日前の痛みを思い出して、腰をさする。しかし、かがまずしゃがみながら、拾い集めていった。

あらゆる場所がごちゃついている。普段と比べても、5割増でひどい。それには理由がある。わたしがずっと動くことができなかったからだ。


人生ではじめて、ぎっくり腰になったのは、1週間前のこと。

数日前から予兆はあった。今思うと、なぜか玄関ドアを塞ぐように置かれていた36kgの猫砂を持ち上げたのがきっかけだったのかもしれない。

珍しく腰が痛くて湿布を貼ってもらっていた。
けれども、動けないというほどではなかったので楽観視しており、早朝から1時間のウォーキングに出たくらいだった。

ところが、ある朝、小学生の娘を送り出し、自分のためのかんたんな朝食を用意して、椅子を動かそうと身体を傾けた瞬間。

ピキッと小さな音がした。

動けなくなって、叫んだ。
ぎっくり腰だった。


3日程度だと聞いていたけれど、思っていたよりずっとずっと治りが遅く、普通になるまてに1週間が経った。

子どもの送迎以外で(ぎっくり腰になっても母親業は休めなかった)、ようやく外に出られた。

重いものを持ち上げるのはまだ怖い。でも、自転車には乗れるようになった、そんな日だった。

ちなみに、腰が痛すぎて子どもを持ち上げるのが辛いとき、この椅子が役に立ちます。これがなければ無理でした…。



きょうは6時間授業だ。
娘が2年生になってようやく手に入れた、いつもより1時間長い自分時間。

絶対に、なにがあっても、濃厚で大切で充実したものにしたい。

そんな決意とともにいたけれど、散らかった部屋を見るだけでわたしはげんなりした。

こうして永遠に終わらないモノヒロイをするために、結局自分の時間というのは削られていくのだから。


こういうときは、気持ちを切り替えるに限る。

だから、最初にしたのは片づけ……ではなくて、バターを室温に戻すこと!

午前中は外で仕事をして、昼食は家で取る。それがマイルール。

この日は、チルドの「卵かけ麺」があったので、麺を茹でている間に、すこしでも栄養バランスを整えようとスープをつくった。キムチと湯葉入り豆腐、もやし、豆乳でつくったものだ。キムチって万能で、野菜を切るのがきらいなわたしの”ちょい足し栄養”に欠かせない。

インスタ映えなどお構いなしに、適当に盛り付けて、Webで悪役令嬢ものの短編を読みながら、ぼんやりとお昼ごはんを終えた。


相変わらず、部屋は悲惨な状況だ。

換毛期の猫たちの落としもの。
なぜかダイニングの椅子の下に小さなくつした……。
そもそも、子どもたちはどうして鉛筆を床に落としたまま拾わないのだろう?
定位置に戻してと頼んでいた本やノートや教科書は、机の上に高く積み重ねられただけだ。

「まとめたんだからいいでしょ!」

と二人の小悪魔は言うけれど、そのまとめたものを片づけるのは、だれ?


ふつふつとこみ上げてくる感情に危険なサインを感じたわたしは、勢いよく立ち上がる。

せっかくの一人の時間だ。
絶対に、ぜったいに、イライラして動けないという事態を阻止しなければ。

ひとり時間は幻想である。長期休暇には一切存在しない。

長期休暇が終わっても、午前保育やら個人懇談やらで早く帰ってくる。しかも、子どもが体調を崩した瞬間に、10日ほどまとめて失われるたぐいのものなのである。

かけがえのない今を楽しむしかない。
(#なんのはなしですか)
(現に、この6時間授業の日の1週間後、わたしのひとり時間は消失した。子どもが熱を出したのだった)


キッチンの引き出しから、レシピが入ったファイルを取り出す。開いたページには、レモンケーキの文字。

今ではわたしの、唯一得意なお菓子になっている。

まずは、オーブンを170度で予熱する。

それから、準備。
ごちゃつく調理台の上にあるものを、ざざざっと手でどかした。

"ていねいな暮らし"をしていると最近いろいろな人に言ってもらえるのだけれど、わたしは首をかしげるばかり。


もともと汚部屋出身であることは公言しているのだけれど、片づいても性根は直らない。

こんなふうに、生来とても雑な女だ。
実母を”お嫁に出すのが恥ずかしい”と嘆かせた経験の持ち主なのである。


一方で、”ていねいな暮らし”への憧れも捨てきれない。
梅仕事もお菓子づくりもしてみたい。とにかく、いろんなことをやってみたいのだ。

足を引っ張る雑な性格に悩むこと数年。
どうしたかというと「ていねいな暮らしを時短」することに決めた。

工程そのものを楽しむのではなく、いかに効率的に、”ていねいっぽい結果”を出すのかを楽しむ。本末転倒かもしれないけれど、もともとせっかちな性質で、過程を楽しむ力が人より弱いのでこういうふうに行き着いた。

だからわたしは、作業風景なんかのリール動画を撮ることはできない。(……少なくとも、日本では)

コップやら鍋やらをどかしてなんとか空いたスペースに、Amazonの梱包紙を敷く。これは新聞紙のような使い道でマルチに使える万能アイテム。粉の飛び散りを防ぎ、掃除をラクにするために用意しておいた。

それから、どんどん、材料を揃えていく。

粉に、たまごに、おさとうに……。使う順番に並べて置く。気分はホットケーキを焼く”シロクマちゃん”といえたらいいけれど、実際にはものぐさなので、道具もすべてそろえておかないと、途中でやめる危険性があるからだ。

レシピも、もらったままの状態だとわかりにくいから、ひと目で理解できる、自作のレシピカードをそろそろ作らなければいけない。

カードをつくるのも手間がかかるので「5回以上くり返し作り」「今後も一生つくり続ける」と思うものだけを手書きでつくることに決めている。

「あ」

重要なことを思い出し、わたしは、冷蔵庫の扉を開ける。

レモンケーキなのでレモン汁も忘れてはいけない。
いつもは市販のレモン汁なのだけれど、この日は生の国産レモンを用意しておいた。とても”丁寧み”があり、わたしは満足した。

生のレモンを絞るのにはコツがある。半分にカットしてから、フォークを突き刺す。こうやって絞ると、みるみるレモンジュースが完成する。

ーーそうだ、それからあれを持ってこなければ!

準備を完ぺきにしてからはじめたつもりだったけれど、思考があちこちに飛んでしまう。
やはり雑多に散らかった部屋のせいだろう。わたしは眉をひそめた。

完ぺきに準備するための”置き画リスト”もあったほうがいいかもしれない。こういう、道具や材料がたくさんあるときに便利なのだ。

戸棚の上のほうから取り出したのは、アンティークゴールドの、レモンケーキの型。
すっかり定番おやつになったので、思い切って型まで購入していた。

まずは、帰宅したときに室温に戻しておいたバターから撹拌していく。
砂糖を加えハンドミキサーで練る。この作業のとき、結構飛び散るので、Amazon梱包紙に受け止めてもらう。

卵は2,3回に分けて入れる。
粉をふるう。ざっくりと混ぜて、レモン汁を加える。

型に流し込んだら、あとはきつね色になるまで焼くだけ。


生地をオーブンに閉じ込めた。

ここからが、片づけタイムだ。

散らかった部屋でレモンケーキを焼くのには、じつは、理由がある。海外のインスタグラマーのまねをしているのだ。

それまでのわたしは、お菓子づくりって、とてもハードルの高いものだと決めつけていた。美しく整った部屋で、楽しみながら丁寧につくるもの。
そんな思い込みがあった。

だから、アメリカの人気インスタグラマーのリール動画を見たわたしは驚愕した。

家じゅうあちこち散らかっているのに、あろうことか、彼女は唐突にお菓子づくりをはじめたのだ。

ハイカロリーで甘そうで、とんでもなくおいしそうなお菓子をつくる工程が動画には映し出されている。そこでわたしは違和感を覚える。日本のInstagramとなにかが違うのだ。

「え、雑では……?」

わたしと同じくらい、雑な動きだった。

画面の向こうの彼女は、ぽかんと口を開けたわたしに気づくことなく(当たり前だけれど)、手早く生地を完成させ、オーブンに入れた。

このあと、おしゃれなお菓子のシーンが来るのかなと思ったら、予想を裏切られた。

彼女は、唐突に動き出したのだ。

美しい金髪を振り乱し、ものすごいスピードで家じゅうをきれいにしていく。落ちているものを拾い、もとの場所に戻し、掃除機をかけていく。日本では見たことのない機械を使って、絨毯のシミも元通り。

床に落ちたブランケットやクッションを拾い集め、ソファに並べていく。クッションには素早くチョップをして猫耳のような形に整える。(チョップ!?)

物やゴミに覆い隠されていた、おしゃれで映える豪邸が、どんどんあらわになっていく──。


「お菓子づくりって、完璧なキッチンにしてからやらなくてもいいんだ」

まるで天啓を得たような驚きとひらめきがあった。

でも、確かに合理的な方法だ。
焼き菓子をつくるためには、長い待ち時間がある。その間に部屋がきれいになっていれば、食べるときにきれいなわけで、結局は同じことなのだ。


オーブンに生地を閉じ込めたわたしは、Switchの電源を入れて、マリオカートをはじめた。

わたしは、この6時間授業の昼下がりを、1秒たりとも削りたくなかった。完全に自分時間で染め上げようとしていた。

(#なんのはなしですか)

だから、オンライン対戦の待ち時間に部屋を片づけるという心づもりなのだ。

この方法は、家がきれいになる以外にも良いところがある。

イライラしないのだ。スターを得た無敵状態のプレイヤーには、たまに攻撃的な人がいる。さっと道を開けても、ブレーキをかけて壁際に追い詰め、バックカメラで位置を確認しながら執拗にとどめを刺そうとしてくるようなタイプだ。
これをやられるとさすがに苛立ちが収まらないのだけれど、待ち時間の間、片づけや掃除をしていれば、存在を忘れられる。
(#なんのはなしですか)


約20分後。
何度か調整して、ようやくきつね色になったレモンケーキを取り出す。

粉砂糖とレモン汁または牛乳を混ぜたアイシングをつくり塗っていく。お砂糖をケチったせいで、どろどろになってしまった。
次回、分量研究が必要だ。


14時30分。
わたしはマリカーをやめた。


部屋は綺麗になった。
レモンケーキも焼けて、アイシングがつやつやときらめき、甘酸っぱいにおいが部屋いっぱいに広がっている。

レモンケーキは、なんでも食べる8歳娘だけじゃなく、超偏食の5歳息子もぱくぱく食べるお気に入りのおやつ。かんたんだけど、気軽につくるには手間がかかるので、子どものためになにか一つでもできたことをうれしく思った。

娘と息子が帰ってくるまで、あと1時間。

わたしは、2階にあがり、図書室から小説を一冊取り出してきた。

そうして、ソファにごろりと寝ころんだ。

6時間授業の昼下がりを、むだなく使い切った!(あと1時間あるけれど)

猫がとなりにやってきた。かと思うと、遠慮なくわたしの身体に登ってくる。痛みと温かさに押しつぶされながらも、わたしは、達成感にほくほくしていた。

そして。
ページを開こうとして。



「ただいまー……ちょっとママ!なんで寝てるの!」





追伸、最後までお読みいただきありがとうございました。
実用書作家の三條凛花です。ふだんは、家事のことをよく書いています。
焼き菓子はなにをやっても黒焦げか生焼けにしてきましたが、このレモンケーキだけは無理なく作れておいしくできます。
おすすめのお菓子のレシピがあったら、ぜひ教えてください♡

▼プロフィールはこちら。

▼エッセイはこんなのを書いています。

▼小説もあります。



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三條 凛花 │  "時間が貯まる"ノート本著者
最後までお読みいただき、ありがとうございます♡

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