その仕事に、魂はこもっているか。
私なりの、noteに対してのスタンスの話。
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成果物に全て現れる
「もっと魂こめた企画にしろよ。」
「お前が作る資料には魂がこもっていない。」
営業企画部時代に、よく上司から言われた言葉である。
ここで言うところの「魂」とは、「質」、ひいては「自分の頭で考え抜いて、自分で『絶対にこうした方がいいと思う』と自信を持てる状態にできているかどうか」ということだと解釈している。
当時私は、成果物を最終確認をする場でさえも、「相談してフィードバックされること前提」で提出してしまうことが多かった。
もちろん、正確に無駄なく推進する上で、事前の相談や意見のすり合わせは必要である。だけどその相談を経て、「ここは最後●●さんに意見を仰いでから進めればいっか」とか、「まあこんなもんかな」とか、「自分は最終形態こうした方がいいと思う」を持たないままでいると、決まってそのセリフを言われるのだった。
加えて上司は言ってくれた。
「森逸崎、そのクセは早めに直しておいた方がいい。お前にその気がなくとも、手を抜いた仕事は手を抜いた分だけ、相手に伝わるぞ。」
公開したものが全て
今その言葉を思い出したのは、noteを始めて1ヶ月経過して、自分の過去記事を読み返したからだった。
あー、これは途中で悩んだなあ。
この文章はUPした後にすごい修正加えたんだよなあ。
たかだか20本そこらなのに、客観的に見て、悩み抜いた迹だったり、後付け感満載だったり、その瞬間の私がその出来事に対してどんな情報処理をしたかが、手に取るようにわかる。
でも、その痕跡も含めて、ここに掲載されているものが全て、その瞬間の私の言葉の最終形態だ。どんなに紆余曲折を経た文章だろうとそれは関係ない。
記事を見ながら考える。
20本のうち何本かは、惰性や義務感で書いたものがなかっただろうか。更新頻度を保つためだけに、自分の言葉に落とし込む前に放出してしまったものがなかっただろうか。
継続のために肩の力を抜いて取り組むことと、魂を込めないことはまた別である。
明らかに魂のこもっていない文章は、自分で読み返してもやっぱりつまらない。自分でそう感じるのであれば、他の、読んでくださってる方にはもっとそう思われるに違いない。
記事を読み返して、1つの文章に何回迷っても悩んでも修正してもいいから、ちゃんとその瞬間の私の声を、考えを、気持ちを、言葉にして外に出して形にしてあげたいと、改めて思うようになった。
漂流してても良い時期
そんなことを考えながら、自分のために始めたnoteが、無意識のうちに、いつどこで読んでくださっているかもわからない誰かのためのものになっていることに気が付いた。(noteを始めた理由については自己紹介参照)
小さい頃にペットボトルに手紙を入れて九十九里浜に流したことがあったけど、何となくnoteに文章を投稿することは、それと近しい感覚かもしれないと思ったりもする。
誰かに届いたら嬉しい。でもそれを見つけてもらうのは難しいとわかっているから、誰に届かなくても私は大丈夫。
私だけが、「それ」が「そこ」で漂っていることを知っている。
(いま冷静に考えたら立派な不法投棄)
そして一歩外に目を向ければ、明確な「期日」と「それ」や「そこ」が求められる世界が広がっているけど、考えてみたら、私の言葉はまだ、誰にも届かないことが許されている。
だからこそ、
「自分用の文章だから良いよこれで」
「誰も見てないから適当でいいよ」
そんな言い訳や妥協をするんじゃなくて、ちゃんと自分が納得がいくまで、迷って修正して作ってあげて良いと思う。
少なくとも私は、自分が自分のためだけにでも、魂を込めてくれた文章が大好きだ。