見出し画像

SNSが大嫌いだった私が、使うことも、実名を出すことも、顔出しも、平気になったストーリー

つい最近まで、SNSが大嫌いでした。

自分が投稿するはもちろんのこと、見ることすらも。

社会的な必要性から、ギリ、スマホは持っていましたが、「できることなら携帯電話なんて要らない世界で生きたーい!」とすら思ってましたし

そんな感じだったから、子育てが始まって保育園や家族から呼び出しってことが起きるまでは、休日は、携帯電話をあえて自宅に放置して外出したりしていました。

そんなワタクシ、SNSとの関わりについては

むかーしあったmixiは、一度も使うことも、覗いてみることもないままだったし

Facebookは、たまには流行りに乗ってみるかと少しだけ関わってみたけれど、けっきょく必要も楽しみも見出せず、すぐに遠ざかり。

LINEは、既にかなり浸透していたっぽいころに、保育園の保護者会活動の都合で、しぶしぶ利用開始。

Instagramに至っては、自分には一生必要ないと思っていて、アプリすらダウンロードすることなくいたけれど

会社員→自営業に転ずるタイミングで必要に変わり、こちらもめちゃくちゃ抵抗を感じながら利用開始しました。

さて、なんでそんなにもSNSが嫌いだったかっていうと…

これは、ほんのちょっとだけ関わった Facebookきっかけで勃発した感情の影響が、たぶん一番大きくて、

その当時の私は、Facebookを見ると、落ち込んだり、焦りにかられたりしがちだったのと

自分のことを投稿してみても、全然楽しくないばかりか、逆に心の穴が暗く深くなっていくような感じがしたり

見た人からどう思われるのかが気になって仕方がなかったからです。

まず、「落ち込む」ことに関してですが、これはもう、他人様の生活のまぶしさです。

その頃の私は、仕事・子育て・家事(うん、この順番で間違いなし)に追われながらも、全てをそれなりにこなしてはいて

きっと外側から見ると、何不自由なく充実しているように見える日々を送っていたのですが、

実際は、ものすごーく、不足感とかやるせなさを感じていました。

そんな状態で、他人様のキラキラしてみえる生活:

たとえば、すっきりと片付いた、ぴかぴかで真っ白の、広々としたダイニングキッチンの写真とか

『旦那さんがサプライズでバースデイケーキを買ってきてくれましたぁ〜♡(キュン)』って投稿とか

そんなのを見ちゃうと

「なんだろ、こんなに頑張ってるわりに、私のこの荒れた生活よ…」って、むなしくなってしまって。

見れば見るほど、自分の目の前にある現実と比較しては、落ち込んでしまっていたんです。

「焦り」に関しては、とりわけ、健康と子育てに関する投稿に、過剰に影響を受けがちだったことです。

不安感がきっかけとなって、警鐘を鳴らす系の投稿をひとつクリックすると、次から次へと、関連する投稿が上がってくる。

すべてが真実とは限らないよ、安易に信じないで、ちゃんと自分自身で確認しなきゃって、リテラシーは持っているつもりでも

ふと俯瞰してみたときに、やっぱり少なからず影響を受けている自分に気づくんです。

その頃に起こった3.11。

さらに過熱していくように感じられる投稿もありました。

次第に、不安ばかりが大きくなっていることを感じて、これは今の自分にはよくないなと、アクセスすることがなくなっていきました。

「自分をさらけ出すこと」に関しては、写真や文章のクオリティ問題と、その背景にあったもの。

SNS上には、センスがひかる写真や、思わずうなってしまうような上手な文章があふれています。

「こんな素敵な写真が溢れてる中に、こんな下手で見栄えもしない私の写真、投稿して意味ある?」とか

「こんなに読みごたえのある文章は私には書けないな…」という気持ちがあるから

なかなか投稿しようっては気持ちにはなりませんでしたし

そもそもが、不足感でいっぱいで、自分に自信も誇りもない状態でやっているから

「そもそも、そんな中身ある文章を書けるような自分でも生活でもないしな」って、なっていって。

そんな経緯で、もともと関心が薄かったSNSから、意図的に距離を置くようになっていきました。

…そんな私だったんですが、今となっては、このような、知り合い含め誰もがアクセスできる場に、自分のかなり内面的なことまで包み隠すことなく書けるようになりましたし、

LINEのプロフィールは自分の顔写真&フルネームになりました。

Instagramは、他人様の投稿を拝見して、落ち込んだり、焦ったりということは基本なくなって(もしあったとしても、その感情に向き合うということができるようになりました)

自分が投稿することに関しては、

「すごくいい写真ってわけじゃないし、文章も上手じゃないけど、これが今の自分精いっぱい」

「だれがなんと思おうと、これが私なんだもの」

と、ありのままの今の自分を表現できるようになりましたし、

それに伴って、顔出しへの抵抗もすっかり外れました。

気がつけば

「ほんとは嫌だけど、必要だからやる」

から

「嫌」というのはなくなって、

こんな機能あったんだと発見しては喜んだり、今回はこんな工夫をしてみようとか、わりと楽しんでいる感じがします。

…じゃあ、なんで、こんな風に感じ方が変わったんだろう、なんで平気になったんだろうってことを考えてみたとき

これは何より、「どんな自分も自分の一部だ」って思えるようになってきて

「完璧じゃない自分は見せたくない」って気持ちもほぼなくなって

自分自身にも、自分がさせていただいていることにも、誇りを持てるようになってきたからだと思っています。

ここに至るまで、3年ほどかけて、こわばっていた身体をゆるめ、エネルギーを満たしつつ、とことん自分と向き合っては、深掘りしていくってことを続けてきました。

自分と向き合うという作業は、なかなかにしんどいものです。

「こんなにひどいことを自分が思うなんて、認めたくない!」って自分の卑しさや醜さを、認めざるをえなかったり

「自分がこんなことするはずない!」ってことをしてしまった過去を知ることになったり

できることなら、蓋をしたまま、もう二度と掘り返したくなかった経験に、あらためて向き合う必要が出てきたり。

どんなに醜い自分も、汚いことをした自分も、憎しみにのまれてしまった自分も、自分自身。

自分の中にも確かにある闇を、まっすぐに見つめ、受け容れていくという作業です。

でも、そうやって、涙もたくさん流して、痛みも感じて

「間違いもいっぱいしたけれど、そのことをありのまま認めて、反省すべきは反省して、これからに活かしていこうね」と、受け容れる努力をしてきたことで

だんだんと自分を受け容れることができるようになって

自分を受け容れることができるようになったことで、他人の評価も気にならなくなって…

というように、変わってきたのだと感じています。

また、自分の棚卸しとヒーリングをしていくことで、本来の自分の感性だったり、好きなことだったりも思い出すことができました。

自分自身との対話というのも、まだまだ未熟ではありながらも、できるようになってきました。

そういった過程を経て、自分のあり方や、させていただいていることに、誇りを持てるようになってきたのだと思います。

自分を知っていく、その一歩を踏み出したり、継続していくことは、楽しいことばかりではないですが、とても豊かで、喜びに満ちていて、清々しいことです。

それは、自分を癒すことであり、自分を大切にすること、そのものです。

もし、「自分にも当てはまるところ、あるかも…」という方がいらっしゃれば

この記事が、あなたが一歩を踏み出したり、踏ん張ってみたり、そんな微力にでもなれれば、これ幸いです。

この記事が参加している募集