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人文科学報道部①

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哲学/言語/文化人類学/歴史/地理etc.
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東京下町散歩 葛飾・柴又 本篇

東京下町散歩 葛飾・柴又 本篇

 午後2時頃に柴又駅に到着し、本文の順番に散策しました。到着するまでは、映画「男はつらいよ」に見られたような下町風情は、もう僅かしか残されていないと思っていましたが、いざ着くと確かに映画で見た町の趣がありました。駅前から帝釈天までの間は寅さんにまつわる看板や広告で溢れ、寅さんがいつ帰って来てもいいように残された町という印象を受けました。

柴又駅

 1912年開業の京成金町線、柴又駅ですが、それ

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東京下町散歩 葛飾・柴又 導入篇

東京下町散歩 葛飾・柴又 導入篇

はじめに (活動報告)

 先日、立教大学探検部さん主催の座談会に参加しました。他大学の探検部さんもいらして色々と熱く語り合いました。

 中でも印象に残ったのは昆虫食の実践として食した参加者さん自作のタガメ入りアイスクリームです。アイスはすぐに口の中で溶けてしまうので、タガメだけ舌に残るという事態になりパニックになりました…。

今でも覚えているのですが、刺激臭と共にしょっぱいとも言える、甘いと

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クメール・ルージュとその余波④(終)

クメール・ルージュとその余波④(終)

 カンボジアが民主化して以降、国連をはじめとする他国の支援もあり、国土の復興・経済の発展が行われてきた。しかし、未だにカンボジアにはクメール・ルージュの傷痕が残っている。

 最初に「国土」の問題から見ていく。カンボジア各地には大量の地雷が埋められていて、今日も撤去作業が行われている。終戦直後は大量の地雷源があったことで土地開発が遅れた。土地開発の遅れは経済基盤となる都市や工場の建設に影響した。全

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クメール・ルージュとその余波③

クメール・ルージュとその余波③

キリング・フィールド

 キリング・フィールドは1ヶ所ではなく、カンボジア中に数百ヶ所、点在している。いずれもクメール・ルージュによる虐殺と死体投棄の現場を意味する。私が訪れたキリング・フィールドはS21等で抱えきれなくなった大量の収容者が輸送され、虐殺され埋められた場所である。施設の正式名はチュンエク虐殺センター。かつては果樹園だった。キリング・フィールドとなってからは1日に300人もの人々が虐

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クメール・ルージュとその余波②

クメール・ルージュとその余波②

S21(トゥール・スレン)

 そこは昔、高校の校舎として使われていたが、ポル・ポト政権下においては拷問と虐殺のための収容所となった場所である。プノンペン市内に位置し、元は高校である為か、敷地はそれほど広く感じない。下の図はS21を上から見た簡単な図である。四角い建物は校舎で、中央に吹き抜けの細長い小屋がある。人々は目隠しでトラックに乗せられ送られて来た。そして自らの処刑の誓約書にサインさせられた

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クメール・ルージュとその余波①

クメール・ルージュとその余波①

 かつて「クメール・ルージュ」という勢力がカンボジアを支配した。クメール・ルージュは「赤色のクメール」という意味で、シハヌーク王政を打倒した親米のロン=ノル政権との戦争(カンボジア内戦)を経て、1975年~1979年の約4年間、ポル・ポトを長とする共産主義政権「民主カンプチア」として君臨した。

 1975年4月、カンボジア内戦を制したクメール・ルージュは首都プノンペンに入城する。混乱する人々を鎮

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川越見聞録②

マックを出て、向かおうとするも、雨が強かった。とりあえず、時の鐘を目指して行こうとする。しかし、観光客の多いこと!あと、歩道が狭い。やっとの思いで、鐘につく。雨の日の鐘も悪くないと思った。雨の日には同じものも違った表情をみせる。その表情を撮ったあと、川越城へ向かう。残念ながら、かつての状態が残っているのは本丸の御殿のみであったが、当時の姿を想像するのもそれはそれで楽しい。なんといっても、雨の日に御

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川越見聞噺

川越見聞録
10月8日に川越に行った。人生で2回目の川越である。その日はちょうど雨で、歩くのが少し億劫だったが、行きたい気持ちが優った。ちょっとその前に。川越に行ったことはインスタにすばらしい写真と共にアップする予定だったが、やめた。なぜなら、"いいね"の数が気になるからである。くだらないと一蹴する方もいるかもしれない。しかしながら私は極度の超絶スーパー心配症なので、いちいち"いいね"の数を気にし

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