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クメール・ルージュとその余波④(終)
カンボジアが民主化して以降、国連をはじめとする他国の支援もあり、国土の復興・経済の発展が行われてきた。しかし、未だにカンボジアにはクメール・ルージュの傷痕が残っている。
最初に「国土」の問題から見ていく。カンボジア各地には大量の地雷が埋められていて、今日も撤去作業が行われている。終戦直後は大量の地雷源があったことで土地開発が遅れた。土地開発の遅れは経済基盤となる都市や工場の建設に影響した。全
クメール・ルージュとその余波③
キリング・フィールド
キリング・フィールドは1ヶ所ではなく、カンボジア中に数百ヶ所、点在している。いずれもクメール・ルージュによる虐殺と死体投棄の現場を意味する。私が訪れたキリング・フィールドはS21等で抱えきれなくなった大量の収容者が輸送され、虐殺され埋められた場所である。施設の正式名はチュンエク虐殺センター。かつては果樹園だった。キリング・フィールドとなってからは1日に300人もの人々が虐
クメール・ルージュとその余波②
S21(トゥール・スレン)
そこは昔、高校の校舎として使われていたが、ポル・ポト政権下においては拷問と虐殺のための収容所となった場所である。プノンペン市内に位置し、元は高校である為か、敷地はそれほど広く感じない。下の図はS21を上から見た簡単な図である。四角い建物は校舎で、中央に吹き抜けの細長い小屋がある。人々は目隠しでトラックに乗せられ送られて来た。そして自らの処刑の誓約書にサインさせられた
クメール・ルージュとその余波①
かつて「クメール・ルージュ」という勢力がカンボジアを支配した。クメール・ルージュは「赤色のクメール」という意味で、シハヌーク王政を打倒した親米のロン=ノル政権との戦争(カンボジア内戦)を経て、1975年~1979年の約4年間、ポル・ポトを長とする共産主義政権「民主カンプチア」として君臨した。
1975年4月、カンボジア内戦を制したクメール・ルージュは首都プノンペンに入城する。混乱する人々を鎮