クメール・ルージュとその余波③
キリング・フィールド
キリング・フィールドは1ヶ所ではなく、カンボジア中に数百ヶ所、点在している。いずれもクメール・ルージュによる虐殺と死体投棄の現場を意味する。私が訪れたキリング・フィールドはS21等で抱えきれなくなった大量の収容者が輸送され、虐殺され埋められた場所である。施設の正式名はチュンエク虐殺センター。かつては果樹園だった。キリング・フィールドとなってからは1日に300人もの人々が虐殺されることもあった。
上の写真のような穴が幾つもある。かつては5m程の深さがあり、そこから遺体が掘り出された。現在も調査が行われていない穴もあり、地表に遺骨が見える箇所もある。
中央の慰霊塔にはここで虐殺された約9000人の頭蓋骨が納められている。外からでも中の頭蓋骨の様子が確認できる。この他にもキリングツリーと呼ばれる子供の頭を打ち付けて殺害することに用いられた木や最近回収された遺骨が集積された場所もあり、随所でクメール・ルージュによる虐殺の実態を垣間見た。キリング・フィールドではアメリカ人やフランス人の外国人ジャーナリストも処刑された。
キリング・フィールドはクメール・ルージュによるカンボジア大虐殺を象徴する場所として世界的に知られ、同名のタイトルの映画が1984年に米英合同製作の作品として公開された。映画の後半には、ポル・ポト政権下の人々の生活を再現したシーンもあり、歴史を理解する補助資料としてこの映画を視聴するのも良いと思う。
ポル・ポト政権崩壊後
ベトナム軍による軍事支援もあり、内部分裂を起こしたポル・ポト政権は1979年に崩壊する。ポル・ポト含む残党たちはカンボジア北部へと追いやられ、長らく追放されていたシハヌーク国王が復位し、政治は立憲君主制に移行した。一時期は日本を含む先進国から支持を受けたポル・ポト政権であったが、政権崩壊後に虐殺の事実が広まり、世界中が衝撃を受けた。自衛隊によるPKO活動が始まったのはこの当時のカンボジアでの活動からである。
ポル・ポトは政権崩壊後も1998年に死亡するまで仲間と共にカンボジア北部に潜伏していた。最期は部下により毒殺されたと言われている。その後、クメール・ルージュの幹部・主要構成員だったオンカーの多くが拘束され、カンボジア特別法廷にて裁きを受けることになった。カンボジア特別法廷に関しては関係者が賄賂を受け取った疑惑もあり、公正な裁判であるかどうか疑問が残る。次回はようやくクメール・ルージュがもたらした悲劇の「余波」について詳しく説明する。
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