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藤原定家と吉幾三 -不在の美学-

「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」

学生時代に習った短歌(新古今和歌集・藤原定家の作)ですが、今でも寂しい季節になるとよく思い出す。物悲しい風景。むしろ長い時間が経ってからの方がじんわりとくる。

なので、当時の古文の先生の授業を回想してみました。「花も紅葉もなかりけり」というのは華やかなものの不在を重ねることによって、浦の苫屋の秋の夕暮れの侘しさが際立つ…とかそんな。

なるほど。すごくわかるような気がする。定家先生はこの技法を思いついた時に心の中で「キター!」と叫んだに違いない。死語だけど定家先生ももうとっくに死んでるからまあいいか。よくないか。
ワビサビ系ニュージャンル。想像だけど当時も花とか紅葉とか、いかにもバエるような短歌が王道だったんじゃないか。たぶんワビサビは少数派。そこにこんな歌が降りて来た定家先生すごい。

この新古今和歌集の美学の遺伝子は、オマージュとかそういう直接的な形じゃなくても脈々と現代日本に受け継がれている。

例えば昭和歌謡。吉幾三の「おら東京さ行ぐだ」。テレビもねぇラジオもねぇ、という否定の繰り返しで自分の村のショボさを訴えている。昭和時代の曲だけど、歌詞は定家っぽくもあるしジャパニーズラップ?の草分けでもあります。時代を超えすぎ。あと他にもいろいろあるはずよ邦楽懐メロの歌詞で。日本の美意識の奥深さたるや。

…と、ここまで書いて気づいたんだけど。私は外国語もできないし海外文化もまるで知らないわけで。ひょっとしたら海外にもキラキラの不在を重ねることによって侘しさを表現する文化があるかもしれません。アイムソーリー!

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