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🎼音楽😌

 恩田陸さんの『蜜蜂と遠雷』を読んで。

はじめに

 素敵な本に出会うと、もうこの本を超える本には出会えないだろうなという冷静な残念さと、ああもう大切なことは全部この本の中に書かれているという安直な安心感を同時に抱いてしまう。

 この本は、特に後者の色がとても強かった。登場する人物たちに近しい人が、自分の身の回りや、音楽ではないどこかのフィールドにもきっといるんだろうなと思った。

 ホフマン先生みたいな皆の師たる人、亜夜のような数段階レベルの違う天才、塵のような天然異彩な天才肌、マサルのように歩くべくして輝かしい道を歩む者。天才とひとくくりにしても、その才の種類や方向性に一つとして同じものはなくて、天才と呼ばれる人たちは、当たり前にそのことを理解しているのだろう。

 田久保みたく、縁の下の力持ち的ポジションにいるように見えて実は誰よりも優しい強さを持っている人。明石のように、天才ではないかもしれないけれど唯一無二の魅力に溢れた人。印象に残る人、何かを感じさせる人というのもまた、自分のやるべきこととよく向き合っている人なのだと思う。


恩田陸さん

 恩田陸さんの本を読むのは今回が初めてだった。『夜のピクニック』というタイトルは聞いたことがある。『蜜蜂と遠雷』も、何年か前に本屋大賞のニュースで話題になっていた時期に耳に、目にした記憶はある。それくらいの知り具合だった。そして少し前、今年の夏に、音楽やその他諸々色んなものの好みが似ている友達の家に行ったとき。『蜜蜂と遠雷』が本棚の"メイン"の位置に大切そうに飾られているのを見て、頭の片隅でずっと気になっていたその本が少し引っ張り出された。その少し後に本屋さんで見つけて裏表紙のあらすじを読んでみると、どうやらピアノの話らしいと少し興奮してそのまま衝動買いした。

 そのまた少し後に、本屋さんで『spring』という本を新刊コーナーで見かけて、構想10年のバレエ小説という紹介に驚いた記憶もある。

 『蜜蜂と遠雷』を読んで、違う作品ながらその構想10年ということに対して「なるほど、たしかに」と納得した。そして、なんて深く丁寧な音楽に対する理解と考察だろうと感嘆した。


感想

 音楽という非言語の芸術を、小説という言語の芸術でここまで表現できるのか、演奏者一人一人の音の違いをこんなにも言葉や文章から感じさせることができるのか、と、そこに一番感動した。小説って、音楽って、いいな、と改めて感じた。

 そして、音楽を聴くというのは、美術館や個展で絵を見るときの感覚と似ているかもしれないと思った。"言葉じゃない表現"を持ってるっていいな、みたいな、少しの嫉妬も含んだ、でもうっとりした気持ち。言葉や文章は読むことも書くことも好きだけど、少し"かゆい"から。


- 主人公は誰か -

 この物語の主人公は誰なんだろう、という話。

 タイトルや始まり方、終わり方から順当に受け取れば、塵だろう。それに、塵の演奏について書かれた部分は、まるで彼の演奏に釘付けになる観客のように、ページをめくる手が止まらない、いや、ページをめくっているという感覚すら感じないくらい没入してしまう。恩田さんは、まさかそこまで人物像を掘り下げて計算して書いたのか?あるいは、恩田さんは、風間塵という人物についそんな文章を書かされた?

 でも、物語の途中から私は、栄伝亜夜を主人公と捉えて読み進めていた。いつのまにか彼女の優勝を願っていることに気がついて、そのときに、あれ?主人公は誰だったかと一瞬考えた。でもすぐに、そんなことはさておきと彼女のことを一番応援したくなった。

 しかし、物語の世界の中では、マサルが、圧倒的にスターで、それこそ主人公という存在に近い人物なのだろうなとも思う。


- 小説か音楽か -

 風間塵の演奏を聴いて三枝子たちがどうしたらいいんだ?と頭を悩ませたように、この本を読み終えた私はまさに、どうしたらいい?どう解釈したらいい?という状態。

 まるで音楽みたいな小説。具体的な出来事や人物像についての情報量はたくさんあるのに、どこか非言語的というか、その意味や真意を直接的に明言はしてくれていない。

 この小説を読んで(この音楽を聴いて)、何を感じるか(何を想像するか)、どう自分の一部にするか(どう解釈するか)、さあどうする?と、恩田さんから(ホフマン先生から)試されているような気さえしてしまう。


- 涙の意味 -

 終盤、あまりにさらっと、突然、物語は幕を閉じる。この先は?その後は?と、知りたくてたまらない部分があまりに欠けている。

 でも、語られすぎていないその後については、よくよく考えるとちらちらと物語の途中途中ですでに登場していた。

 そして、そんなことよりも、何よりも、「第6回芳ヶ江国際ピアノコンクール審査結果」を見て、静かに私の目頭が熱くなって視界がぼやけた理由をどう説明したらいいのかわからない。この涙の意味が、今一番気になっている。


- またいつか -

 主人公は誰なのか、これは小説なのか音楽なのか、結果を見た瞬間の自分の涙の意味は。わからないことだらけなのに、心は確実に動いていて、音楽が好きだという確信が強まる、そんな不思議な本だった。

 いつも、あとがきや解説を読むとその内容に引っ張られてしまうから、解説を読む前に心の中からあふれてくる本音をひたすら外に出してみた。なぜかそうしたくなった。

 これだけわからないわからないわからないという状態で解説を読んでしまうのは、それが一意見だとわかっていても少し怖いから、まだ置いておこうと思う。いつかの楽しみとして。

 もっと音楽の知識をつけてから、クラシック曲と自分なりにたくさん向き合ってみて理解を深めてから、またいつかこの本を読もう。そしてそのときに、とっておいたあとがきも、答え合わせの解答例として併せて読んでみよう。


p.s. カーテンコール

 3歳から高校生までピアノを習っていた。と芳ヶ江の出場者の皆さんに言うと、驚きを超えて困惑されそうなほど、私はピアノが"弾けない"。練習が嫌いで嫌いで、弾けるようになってからその曲を気持ちよく弾くのは好きなのに、そこに辿り着くまでの苦しい部分を呆れるほど嫌っていた。レッスン日の前日や直前の駆け込み練習の常習犯で、その上クラシックの練習曲はそこそこに、J-Popやディズニー、ジブリの曲ばかり弾いて喜んでいた。

 聴けばどれだけ練習したかすぐわかるはずなのに、呆れず見離さずクラシック曲の指導と楽しそうな曲の提案をし続けてくれた先生と、ずっとピアノを続けさせてくれた両親には感謝してもしきれない。

 社会人になってやっと、クラシック音楽に興味を持った。何段階かかけて、心のギアが上がっていった。今年の冬から春にかけて放送された日曜劇場『さよならマエストロ〜父と私のアパッシオナート〜』も、そのギアを加速させた一つだった。

 ふと思い立って、気づけば勢いで日本フィルハーモニー交響楽団のコンサートのチケットを購入していた。

 終演後、拍手している間の心が満たされたあの気持ちは、忘れられない。『蜜蜂と遠雷』を読んでいて、この瞬間が度々心に浮かんだ。

 演奏以上に、その後の多幸感にあふれた拍手の時間が一番濃く心に残っているその意味は?


 また、コンサートにも行ってみよう。


 音楽の世界の物語を通して恩田さんが伝えようとしてくれた、普遍的な大切なことが一体何なのか、音楽を通して自分なりの答えを探し続けよう。

 まずは、物語に出てきた曲たちを聴くところから🎼😌

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