気持ちの棘が溶ける瞬間。
日常にある嬉しいや、悲しいや、楽しいや、苦しいに自分の心を浸して過ごしている。
すると、時間が消費される本来の速度と、体感する時間の速度がどんどん離れていく。
目先の感情に囚われた心の質量×私の体感する速度を二乗したものは、どんなエネルギーと可換なのだろう。
E = mc² 無から有が生まれないなら、今日の文章を紡ぐにはどんな私が必要なのだろうか。なんちゃって。
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進まない下書きを少し読んでは消していく。
古い日記を読み返すように、少しだけ慈しむような気持ちで。
文章を書くことは、結局のところ気持ちを吐露することに他ならない。少なくとも、私にとっては。
そんな気持ちを小出しにするように、“書いては消して”を繰り返している文章はなかなか形にならない。
どうやら吐き出すのも書くのも一度に終わらせるやり方が向いているらしい。
沢山の書きかけの文章は日の目を見ない。
淀んだ気持ちの底を泳ぐ文字の羅列は、消されるために生まれたわけじゃない。
そんなこと、解ってはいるのだけれど。ねぇ。
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間違っていることを見聞きするのが苦手で、それを正そうと行動するのも得意な方ではない。
実家で「ライトニングケーブルないか?」と弟に尋ねたら「何それ」と宣うので、「iPhoneを充電するケーブル」と答えた。
弟は大笑いしながら「充電器じゃん」と一言。
器って言うかほぼ被覆電線だろうが、と考えつつ私は溜息を吐き「あーはいはい、いいから出せ」と、まぁこんな具合で。
正式名称を答えた私と無知を晒す弟の構図、どうしてそっちが高らかに笑っているのか。コノヤロウ。
上記のように無知を自覚していない方が強気に出るシーンをたまに見かけるが、あの人たちどんなメンタルしてるんだろうか。
間違いが怖くないのか?いや、間違ってると思ってないのか。
両方が間違ってないと思うことで起こってしまう諍いは、もう戦や争いと変わらないのではないか。
多分隣にいる人一人とも、永遠に分かり合えない。主観と客観が完全に交わることはない。
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いい加減に生きていても少しずつ何かが歪むのだ。体だったり、心だったり。
傷を付けることのないように、折り合いを付けるのが大人ですけれども。
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ひと月前くらいに大切な友人からとてもハッピーな連絡があった。その日の夜は何となく穏やかでいい気持ちだった。
連絡のその先の話が聞けたなら、大切な友人の話を書こうかな。
とりあえずその日を楽しみに生きてみよう。
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