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多和田葉子「白鶴亮翅」〜ときには鶴になり、馬のたてがみを分けると、

普段小説でこんなにも付箋を貼ることはないのだけど、多和田葉子さんの小説を読むときには付箋が欠かせない。
ほんのちょっとした言葉の操り方、比喩、思考のジャンプなどに何度も立ち止まり、記憶にとどめておきたくなってしまう。


主人公はドイツ・ベルリンに暮らす日本人女性。
彼女のなんてことのない日常がただ描かれているだけなのに、この面白さはなんだ。
簡単にあらすじを追ってしまえば、引っ越してきた家の隣の老人に、ひとりでは気が引けるから一緒に太極拳教室に通わないかと誘われ、出かけ、その教室で出会う様々な国籍の人と交流していく。
もうそれだけなのに、多和田さん独特の文体や思考のジャンプなどに導かれ、飽きることなく一気に読み進んでしまう。


彼女は日常の中で、事あるごとに回想する。
そのひとつひとつは有機的にストーリーの幹となることも、伏線となることもないのだけど、そのどれもが魅力的で、また表現の巧みさに惹かれてしまう。


例えば、冒頭そうそうに出てくる、隣人との出会い。
夫が帰国し、ひとりベルリンに暮らすこととなった主人公。引っ越しの日、コーヒーを煎れようとするが、引っ越し荷物のどこにコーヒー道具が入っているかがわからない。仕方なく散歩がてら近所の喫茶店に行こうとする。
家を出ると、そこで隣人Mさんと出会う。引っ越しの挨拶を交わしたあとのMさん。

「お役に立てることがあったら何でもおっしゃってください」
「ありがとうございます。でも今のところ、足りないものは何もありません。」
そこでMさんは言う。
「たとえばコーヒーが飲みたいのに、まだ引っ越しの荷ほどきをしてないせいで煎れられないとか」

さりげないのだけど、こうした出会いはするするっと初対面の糸をほどいていく。

他にも、挿入されるエピソードや出会う人物はとても魅力的で、日常ほどおもしろいものはない、と気づかされます。

木の上に登ったまま降りてこない日本人、
なぜか自主映画に出演することとなったエピソード、
ドイツの生活に順応しきれない夫、
郊外でお菓子作りをする(魔女)と呼ばれる女性、
金貸しをするロシア人、
バスタブに死体がいると悩むフィリピン女性、
など、小さな驚きがいっぱいです。

また生活のためでなく趣味で進めるクライストの「ロカルノの女乞食」の翻訳作業は、どこか創作の源を垣間見させてくれるようで興味深い。


タイトルの「白鶴亮翅」は、主人公らが習う太極拳の型(式)のひとつで、右手を斜めに上げると同時に、左手では地面を押さえつける動作のこと。
この白鶴亮翅を、太極拳の中国人教師が説明します。

お腹から力を汲んで、ぐっと肩から背中にのしかかってくる相手をはね返すように持ち上げてください。左手も同じです。身体の前面を敵の攻撃から守り、相手を下に押さえ込んでください。

白い鶴が羽を広げるように、という型(式)の名称から捉えると優雅さをまず感じてしまいますが、実際には攻撃と防御のためのもので、この型(式)が最後には思わぬ形で登場してくる。


主人公らが習う太極拳にはいくつかの型(式)があるようです。
物語の中で登場するのは、
野生の馬のたてがみを分ける「野馬分鬃」と白い鶴が羽を広げる「白鶴亮翅」と
琵琶を奏でる「手揮琵琶 」だけですが、他にも日常のなにかの動作に例えたいくつもの型(式)があるようです。


主人公らは多くの型(式)を学んでいきます。

その翌週もそのまた次の週も、わたしたちは太極拳学校で一つずつ新しい動きを習っていった。
両腕に糸を絡ませるようにして目の前の影をおびき寄せながら後退していくこともあった。
鳥の尾をつかんで自分の腹の方に引っ張り、腹にはぶつけず脇でさっと送り出すこともあった。

人生、というか日常にはなにかと押し寄せてくるものがあり、それらすべてをそのままに受け入れてしまうと疲れてしまう。

そんなとき、鶴になったり糸になったり、また馬のたてがみを分けるように鳥の尾をつかむように流れに逆らわず身をこなせばきっと緩やかな河の流れのままに生きていけるのだろうな、とそんなことを思ったりもしました。

ちょっと太極拳に興味が湧いてくる一冊です。


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