本に愛される人になりたい(70) 「紫式部日記」
歴史上の人物の、その人物像、そのイメージは、人それぞれでしょう。この一月からNHKの大河ドラマ「光る君へ」が始まったので、私にとっての紫式部のイメージはどうだったかと薄れるイメージを掘り起こしていました。
『源氏物語』を書いたのは紫式部だと初めて教えてもらったのは小学校の社会科の授業だと思いますが、小学校に入学する前から、祖母と遊んだ小倉百人一首で紫式部という人物の名前は知っていました。テレビゲームなどない時代だったので小倉百人一首を何度も楽しむことになり、紫式部の「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな」(久しぶりにめぐり会ったのに、それがあなたかどうかも分からない間に帰ってしまうなど、まるで (早くも) 雲に隠れてしまった夜中の月のようではありませんか)という一首も、その意味は不明ながら覚えてはいました。代々京都の町衆だった我が家系の文化を継承しようと思っていた祖母なりの教育のおかげです。
話は変わりますが、「京都=雅」というのが一般的な京都のイメージと思われ、特に平安時代の京都、そして朝廷に集う公家衆や天皇たちの日々の暮らしもまたそうした雅感に溢れたものだととらえられてきたと思っています。ただ、私個人としては、平安時代といえども人は人で嫉妬や裏切りなどが渦巻いていたはずだと、平安時代に雅感溢れたイメージはまったくありません。
では紫式部という人物のイメージはどうかというと、ある意味人間味溢れ、ときに辛辣だという人物像がぼんやりとあり、京都の女性っぽいという感じもあります。
中学生になり「源氏物語」にチャレンジしたのですが、大人の恋愛経験乏しい私にはまったく面白くなく断念。高校生の時もやはり断念。大学生になりいくつかの恋愛をしたものの、「源氏物語」に描かれている光源氏が単なるプレイボーイとしか見えず断念。その後社会人となり恋愛を重ねましたが、多くの方が評価するように「『源氏物語』が面白い!」とならずにいました。
この「源氏物語」の作者である紫式部という人物の私のイメージがどのようにしてできあがってきたかを問うと、中学生の頃に読んだ「紫式部日記」にその源泉がありました。
この「紫式部日記」は、紫式部の晩年の1008年(38歳?)から書き始められ1010年(40歳?)までの日記で、宮中で思ったことなどが認められています。「源氏物語」が1001年から執筆され始め、1008年に一条天皇が「源氏物語」を評価したとされているので、「紫式部日記」は「源氏物語」の宮中での評価が固まった時期に書かれていたはずです。ちなみに、清少納言の「枕草子」が1001年に完成したとされていますので、紫式部は清少納言が執筆した「枕草子」の高評価を目の当たりにしつつ、「源氏物語」を書き始めたのではないかと思われます。
その清少納言について、紫式部はかなり厳しい言葉を「紫式部日記」に遺しています。たとえば…。
「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち眞字きちらして侍るほども、よく見れば、まだいとたへぬこと多かり。かく、人にことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすゑうたてのみ侍れば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らむ」(「紫式部日記」岩波文庫)
かい摘むと…。
「清少納言は、学識の程度をよく見れば、まだまだ足りない点だらけ」とか「風流という点でも、その上っ面の嘘だけになってしまった人の成れの果ては、良いものではない」などと厳しい評価を下しています。
紫式部と清少納言の「女房」としてのポジションを考えてみると、一条天皇の妃だった定子(藤原道長の長兄である藤原道隆の子供)に女房として仕えたのが清少納言で、紫式部はその後の妃の彰子の女房として仕えました。女房としても、そして「枕草子」の作家としても先輩にあたる清少納言に対し、立ち塞がる大きな壁のように、辛辣な言葉を「日記」に認める紫式部です。
中学生の頃に読んだ「紫式部日記」から形作った私の紫式部のイメージは、とても人間味があるもので、冒頭に書いたように、まったく雅感などはありませんでした。そして、その紫式部イメージを抱え「源氏物語」を読み直し、さらにNHKの大河ドラマ「光る君へ」を観るにつれ、1000年以上もの昔の、我が京都で生きた彼ら/彼女らの息づかいが感じられ、リアリティ溢れるその「時代」のイメージが立ち現れます。
ちなみに、「源氏物語」は古文で読むよりも英語訳(ロイヤル・タイラー訳)の方が読みやすく、理解しやすいのです。古文より現代英語版の方が、私の言語学上の理性と感性に合っているようです。中嶋雷太