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いつからか 大人びて笑うことを覚えて いつからか 涙を隠すようになっていく 差しのべた手を 嫌がって ひとり遠くを 歩き出す 迷う小さな その背中 心配ばかりが 募る日々 頬を通る 朝の風 大きく広げて 君の羽 今はここで 見守ろう 誰より強い 眼差しで いつの日か 心に芽生えた希望の種 いつの日か 小さな蕾が開いてく すぐに抱っこをせがんでた 幼いままの 無邪気な瞳 いつも優しさ携えて 笑顔で歩いていてほしい 心を潤す 春の雨 優しく包んで 君の夢 今はここで 信
プランナーさんからの写真が届いたよ。と家族LINEにアルバムが4つ出来ていた。 ひとつにつき250枚以上あり、全部で1000枚を超えている。これ全部見れるかなと思いつつ、ひとつ目の「挙式前」とタイトルされたアルバムを開く。 初夏の日曜日、吉日快晴、長女の結婚式があった。 披露宴の様子は私自身も含め、友人たちからの写真も多量にあり、すでに共有していたけれど、教会内の挙式は写真NGだったため、カメラマンさんの写真オンリーなので初めて見るものばかり。一枚一枚スワイプしていく。
一年が終わるときに響く除夜の鐘。 幼いころ、元日にニュース映像で流れるその音を、どうしても大晦日の夜に聞きたかった。年を越す瞬間を確かめたかった。年越しイコール除夜の鐘というイメージが植え付けられていて、だから確かめるには除夜の鐘を聞かなければと思っていた。大人たちは大晦日には必ず起きていて、きっと何かが、分からないけれど何か特別なことがあるのだと信じていた。 時代は昭和である。 レコード大賞からの歌合戦、ゆく年くる年という流れのなかで私は育った。そして道産子なのである。そ
講堂に集う卒業式は中止になった。 三月某日、娘は教室で卒業証書を受け取り、通っていたデザイン学校を無事に卒業したと連絡がきた。 その数週間ほど前、広い校舎を利用して、卒業制作展が数日間にわたり開催されていた。 青空なのに雪がちらちら舞う中、展示会場となる学校の最寄り駅で娘と待ち合わせる。 大学卒業後に社会人で入学したので、もう親の出る幕じゃないなと入学式には出席もしていないし、去年は外出していないので展示会などを含め学校へ来たことがなかった。日差しで溶けかけの、ぬかるんだ
娘の部屋から、トロンボーン四重奏団のCDが流れている。高校生の時に演奏会に行って、その会場で購入したものだ。 自らオタクと称し、ここ数年は推しの音楽ばかりを聴いていたのに珍しいな、そして懐かしいなと耳を澄ませる。 ♪ 小学校に入ってすぐに「アレやりたい!」と言ったもの。それがブラスバンドだった。4月の入学式、生徒が入場行進する傍らで演奏していた姿が強烈に印象に残ったようだ。5月の運動会の入場行進も娘はよそ見をしていて、傍らのブラスバンドの演奏に目が引きつけられているようだ
長女4歳。 幼稚園の面接にて。 お決まりの質問が投げかけられた。 「好きな食べ物は何ですか?」 可愛らしく両サイドでセーラームーンのように髪を結い、私の手作りワンピースを来た娘は、髪の毛を揺らして「えーと」 と天井を見上げ考えていた。 隣に紺のスーツ姿で背筋を伸ばし、品の良いていで座る私。小首を傾け、ぽわんと天井を見上げ静止している娘に、決して急かすことなどせずに、優しい母の眼差しを崩さずに待つ。窓の向こうには、同じようにぽわんした雲が浮いていた。 ハンバーグにするかカレ
たろうって、いつの時代設定なん? 自分で自分をツッコんでいる。 先日 帰省して、断捨離のため部屋の中をひっくり返していた長女の話。 「ちょっと面白そうなの出てきた」と持ってきたのは原稿用紙を束ねた冊子。 片付けていたクローゼットの奥深くから掘り出してきたらしい。 表紙には 『えんぴつのたろう』とある。 そして、顔のついた鉛筆の絵。 小学生のときに書いた物語のようだ。 長女はリビングのソファーに腰掛け、読み聞かせを始める。なんだかワクワクする。 えんぴつの「たろう」は、
ピューロランドで娘を見失ったことがある。 乳幼児3人(1人は抱っこの赤ちゃんなので歩くのは2人)と大人5人。 にもかかわらず、ひとり行方不明。 大人もテンション上がっている間に、娘がひとり消えていた。まあ大事にはならずに発見されたけれど。 そして帰宅後だ。キティちゃんを撮っているそのビデオの中に、娘がひとりで遥か遠く階段を駆け上がっていく姿がはっきりと映っていたのである。 そして、娘を探して名前を呼ぶ私の声も。撮影者は元夫だ。 探している時に、呑気にキティちゃんなんぞ撮って
いずれ引越し先に持参できるよう、娘たちが幼いころのDVDを、整理しながら見直していたときのこと。 じっくり見たことなかったなぁ、と言いながら見ていた長女がふと、 「ちゃんと、姉、してたんだ」とつぶやいた。 「姉なんて自覚なく育てられたのにね」と。 ※ 私の姉が中高生の頃、とびっきり派手な反抗期を迎えていた。飛び火が降りかからないように気をつけて過ごしていたある日。姉が、親に叱られて言い放った言葉を今も覚えている。 「お姉ちゃん、お姉ちゃんって、あんた(父母)のお姉ちゃん
朝。7:10。 LINEスタンプを送った。 「HAPPY BIRTHDAY」 私が母になった日だ。 あの日。 いつまで経っても色褪せることのないあの日。 妊娠7か月近くまでフルで働き、恐ろしいほどの残業も夜勤もして、自分の身体を過信し、おろそかにしていた20代女子。 貧血は早期から指摘されていたけれど、薬を飲むと副作用の吐き気がひどく、看護師なのに自己判断で中止し放置していた。 自覚症状が乏しく身体にはかなり負荷がかかっていたのだろう。 NICUで医師と2人で保育器をは
私が作詞してシンガーソングライターの莉央さんが作曲した曲、 先日、サビの部分だけお伝えしていた『DEAR GIRL』が出来ました。 娘が成長する過程を母の目線で綴ったものです。 すっと頭に入ってきて残る曲なので、聞いたあとしばらく、このフレーズを繰り返し歌ってました。ふと口ずさんでいるのが、自分の歌詞であることに気付いて衝撃を受けるという、なんという幸せな初体験 と先日も書いたように、 自分の綴った言葉が歌となり作品となったことに、深く感動。 私の書いた詩に目をとめてく
希望してもいないのに、バレンタインデーにお休みです(笑) 私自身、チョコレートを渡して告白した、というような甘い思い出はない。チョコレートを手作りしたこともない。素っ気なく味気ない女子だった。 トップ画のチョコは頂き物。 既に私のお腹の中へ投入されている。 そんな私がバレンタインデーにチョコレート菓子を作らざるを得なくなったのは、娘たちの友チョコのためだった。 娘ふたりが学生の頃、バレンタインデーの前日は、決まっててんやわんやだった。 友チョコという言葉はいつからあるの
下の娘が義務教育を終えた春。 ずっしりと重い期間を過ごした。 春には ようやく少し手がかからなくなるね、気持ちが楽になるよ、なんて周りに言われていたのに。 娘に、第一志望校からの合格通知は来なかった。 当初は余裕のあると思われた志望校。 北海道では、上位校の一部に裁量問題なるものが導入された年だった。初めてのことで、どんな問題が出題されるのか分からず手探りの受験。とはいえ条件は皆一緒。 しかしメンタル面で心配の残る娘は、受験が近づくにつれ緊張感が増し力を発揮できず、模試で
「恋人がサンタクロース」という歌があるくらいなので、彼がサンタなんてこともあるのだろう。 1980年に発売され、小学生から中学生の頃に何度もすりこまれ聞いた曲。 サンタは偶像だと知り、クリスマスが楽しいのは子どもだけだね。 子どものくせにそう思っていた私に、ささやかな夢を運んできてくれた曲だった。いつか私も"隣のお洒落なお姉さん"になるんだと思いながら。 にもかかわらず、私はかなりとんがってひねくれた乙女に成長した。プレゼントとかクリスマスとか「なにそれ」的な冷めた目で見て