刺激と反応のスペースの狭さに愕然とした
「何が起ころうとも、それが自分に与える影響を自分自身の中で選択できたのだ。」 自分の身に起こること、すなわち受ける刺激と、それに対する反応との間には、反応を選択する自由もしくは能力があった。(完訳7つの習慣 P79)
「刺激と反応の間には選択の自由がある」という原則。
初めてそれを知った時、
すごい衝撃を受けたのを今でも覚えている。
私はこれまで、人生の多くを
「反応的に生きてたんだ」と初めて自覚をした。
思い出すと、次々と出てきた。
私はよく周りの状況のせいにしてた。
人のせいにする
職場のせいにする
上司や部下のせいにする
店員さんのせいにする
天気のせいにする
先生のせいにする(相手の教え方のせい)
社会のせいにする…
他にもあげるときりがない。
その反応が、まるで当然であるかのように
疑いもせずにいた。
「あなたの許可なくして、誰もあなたをを傷つけることはできない」
エレノア・ルーズベルト (完訳7つの習慣P83)
そう、この言葉通り、
私を誰も傷つけることはできないんだ。
私は、子どもを授かるまでに
約5年の不妊治療を経験している。
タイミング〜体外受精まで経験した。
その間は、とても辛かった、苦しかったこともいっぱいあった。
しかし今、振り返って思うのは、
あの頃の私は、いつも反応的になっていたんだ。
まるで、それが当たり前かのように、
何も選択できないと思い込み、傷ついていた。
出来事は1つ、(出来事は変えられない)
しかしそれに対する解釈や反応は「無数」にある。(出来事の解釈は自分で選択できる)
「自覚」し始めた時、日常生活において、
刺激⇄反応の狭さに、最初は愕然とした。
すぐにいつもの反応的なパターンに
ハマってしまう自分がいた。
なかなか思うようにならない自分に、苛立ちを感じることさえあった。それくらい、深く私の根に染み込んでいることが分かった。
今、私は、刺激に一時停止ボタンを押し、
「反応を選択する」よう努力している。
うまくいく時、いかない時、もちろんある。
でも、コツコツとやり続けていくことで、
見えてくるもの、感じれることにも、
きっと変化が生まれてくると信じている。
最後に大事なメッセージだから、もう一度言います。
(自分の心に言い聞かせたい気持ちもあって)
出来事は1つ、
しかし、解釈や反応は「無数」にある。
このことを忘れないで。
今日も最後まで読んで頂き本当にありがとうございました。感謝。
最後まで読んで頂きありがとうございます!