彼女が見つめる彼女の瞳ー「あなたの目は…」恋する心と愛する欲望ー映画『燃ゆる女の肖像』を見て、わたしは、北島マヤのことを思ったー


彼女は、いきなり海に飛び込んだ。絵を描くためのキャンバスが、小舟から海に落ち流れていく。船には男が数人乗っていたが、誰も拾ってこようとはしてくれない。きゃーっと喚いたり嘆いたりもせず。彼女は黙って上着を脱ぎ、海に飛び込み、キャンバスの箱にしがみついた。

映画の冒頭から、見ているわたしは(何故だ?)と訝っていた。なんで船の男たちは、荷物を拾う態度すら見せないのか。女が海に飛び込んでも助けようともしないのか。はたまた彼女は男たちに助けを求めようともしない。

いったい彼女は、本当に18世紀の長いドレスを着た女性なのか?

たったの数分で「ドレスを着たヨーロッパ女性のイメージ」は覆されるーそして、その上で、彼女はもう一度、立ち現れるーただ一人の画家ーマリアンヌとしてー。

キャンバスを助けに海へ飛び込むシーンは、彼女の中に宿る強い意志を表している。キャンバスは仕事道具であり、彼女のアイデンティティそのものであるのかもしれない。芸術への確信的な思いなのかー

唐突に、ここで思い起こすのは、北島マヤという少女のことである。言うまでもなく日本少女マンガ史に燦然と輝く金字塔『ガラスの仮面』の主人公。14歳のマヤもまた真冬の海に躊躇することなく飛び込んだ。出前ラーメン屋の岡持を捨て、港の波止場に落ちてしまった演劇「つばき姫」のチケットを助けるために…。

20世紀の極東、少女マンガの主人公北島マヤと18世紀の画家、ヨーロッパ映画の主人公マリアンヌは何のかんけーもないって?

そうだろうか?

海に飛び込む。たった一人ででも。たとえ誰も助けてくれようとしなくても。わたしは、飛び込む。わたしの大切なもののためにー

マリアンヌとマヤちゃんの間には、確かな絆がある。確固たるー自我ーわたしの中に息づく、ただ一人の意思であり意志であるものが。

もうずっと長い間、女には、そういうものは「ない」とされてきた。女に個人の意思もなければ、意志などあるはずもない。東洋でも西洋でも中東でも、世界のどこでも。大概の場所で、女は、男の所有物でしかなかった。子供のときは、父親の所有物。結婚すれば夫の所有物。

現代社会ー21世紀の先進国と言われる国では、一応、そういう前時代的な封建時代の遺物的な家父長制度はなくなり、男尊女卑は否定され男女は同じ人間として平等とされている。ヨーロッパでも日本でも、それは同じだ。

だけど本当に実際のところ、現実はそうなっているのかどうか。あんまり定かではない。男の人たちは、考えてみたこともないのかもしれない。「女に意思がない」なんて、思ったこともないよって言うかもしれない。女はつええじゃんうるせえじゃんて。それも間違いではないとしても。

およそ女であるものは、感じている。一度、このわたしが、ただわたしの思うことをはっきりと語りたいと口を開こうとする時。この世界の扉は、どうしてか、ガチャンと閉じる音がすると。

18世紀のフランスに戻ろう。マリアンヌは、島に住む領家の娘、結婚を予定するエロイーズの肖像画を描くために呼ばれたのだったが…。

頑なに世界に対して口を閉じる少女、エロイーズ。自らの意思を閉じ込められているのなら、はじめから閉じられている修道院にいるほうがずっとましだ。そうとでも考えているかのように、堅く結ばれた口元、眉間に刻まれる一本のシワ。マリアンヌは見つめる。彼女の顔、指、うなじ、すべてをひたすらに。

いつどこで人は恋に堕ちるのか。彼女らは恋に堕ち、硬く閉じていたエロイーズは、性に目覚める。噛み締められていた唇は、緩む。

「キスしたいと思った」

どうして人は他人とキスをしたいなんて、思うんだろうか?

男の人は、どうしてだと思いますか?

女の人とキスをしたいと思ったときは、どんな気持ちからでしたか?

彼女らに答えはない。

ただ自分の中から生まれてくるー感情と欲望に蓋をしなかっただけ。

自分と相手の感情と意思を確かめながら、受入れあっただけ。

二人の世界は、やがて閉じるー18世紀のフランス女性は、同性婚もできないし世間も絶対に認めない。悪くすれば殺されるかもしれないー領家の娘は母親に従い、遠いミラノで結婚するー

映画が伝えるものは、何だろうか。

制度の中で生きる女の中に息づく、彼女自身だけが知っている意思。愛と欲望、好きになったから欲する、喜びと悲しみ、ただ一度の自由。

そういったものだろうか。

わたしたちが見ているのは、制度の中の女か、ただ一人生きている女か、そのどちらもか。肖像画と実存、時代と現代のはざまを、映画は駆け抜ける。

燃ゆる女の肖像。焚き火の前で歌う女たち。エロイーズのドレスに燃え移った炎は、彼女自身の燃える欲望と情念。

北島マヤの代名詞、彼女の背中に轟々と燃え盛る炎は。演劇への情熱そのものだった。18世紀の西洋の若い女たちと日本の少女マンガの女の子は、そうしてまた結びつく。炎を背中にしょって…。

ああ。そうだ。彼女らの瞳もまた。

クローズアップと瞳、見つめ続ける、見つめようとし続ける瞳に、強い意志が宿る。映画のカット割りや手法が、少女マンガのコマ割り、技法に非常によく似ていると感じた。その話は、またいつかにでも。












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