もしかすれば、もう会えない、あなたのためにー『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介監督作品『春原さんのうた』杉田協士監督作品
夜中に目が覚めた。
どこかで誰かと話している場面で。スマホで誰かに連絡してたら、突然ラジオ番組がかかり、相手の言葉が聞こえないが「○○ちゃんが飛び降りて死んだ」と挟まれてくる。
聞いているわたしは、びっくりと驚いて、そして泣き叫び始めた。
「◯◯ちゃんが、死んだって言ってる!」
「◯◯ちゃんが、飛び降りたって言ってる!」
会話していた人たちは、見知らぬ人たちで。「〇〇ちゃん」は、現実の親しい友達で。夢の中の出来事には、脈絡はない。
ただただ〇〇ちゃんが死んだ、飛び降りた、という事実(事実ではない)だけが、クローズアップされ。わたしは、錯乱し、恐怖と不安で血圧が上がり、心臓がばくばくと脈打って、苦しくなって、目が覚めた。
喉はからからで、疲れきっている。
なんでこんな夢を見たんだろう?
多分、昨日見た映画と読みかけの本のせいだ。
Twitterで知った映画執筆家(良い肩書きですね)児玉美月さんの紹介文に惹かれ、前情報はほとんどなしで見に出かけた。
『春原さんのうた』杉田協士監督。海外での評価は高く、第32回マルセイユ国際映画祭では日本作品初のグランプリ、観客賞、俳優賞を受賞したとある。
日本では果たして、そんな評価が得られるのかは、わたしにはわからないけど。淡々とした、特にストーリーもなく目立った事件も何もおきない、ただ主人公らしき若い女性の日常らしきものが映されていく。不思議な映画だ。
タイトルの「春原さん」とは誰なのかすら、映画は説明しない。主人公らしき人だって「さっちゃん」としかわからない。
カメラの視点は、他者であり続ける。
他者とは、つまり、見ている「わたし」のことだ。
わたしは、映画の中の人のことを何も知らない。知らないから見てもよくわからない。多くの大抵のエンタメ映画は、だから説明から始まる。主人公はこの人ですよ〜名前は、職業は、年齢は…見てるだけで理解できるように。環境設定もわかりやすく説明される。それに乗っかって観客は「その世界に」無理なく同化し、感情移入を可能にできる。
同化している間、映画の中の人は、全ての人にとって他人ではない。「よく知ってる人」になるのだ。もちろん錯覚だけど。
しかし映画には、しばしば、またそのような物語、わかりやすく作られた虚構の仕組み自体を変容させようとする試みが行われる。
いわゆる「難解な作品」というやつだ。
20歳そこそこの若い頃、「ゴダールを見ろ」とよく周囲の年長の男性に言われたものだ(あれ?そうだな女性に言われたことはなかったな)ゴダールとかベイルマンとか、あるいは『去年、マリエンバードで』とか。
「理絵ちゃんにはわからないよ」
とか言われたりして、頭来た(「超ムカついた!」と言わせてやりたいが、まだその言葉は存在していなかった)
まあでも実際に見ても、よくわかりはしなかった。
そう言って威張っていたおじさんたちが、わかっていたのかどうかも知りませんが。
話がずれている。
『春原さんのうた』は、別にいわゆる「難解な映画」ではない。例えば、わたしたちが日常の中で、電車に乗って、たまたま同じ車両の人が気になってついじっと見てしまう時があると思うけど、そういう時の「自分が他人を見ている」感覚と似ている。
映画館の暗がりの席から、赤の他人の「さっちゃん」の様子を、わたしは見ている。見ているうちに、ぼんやりと「他者の世界」が見えてくる。
ズバリとネタバレすると『春原さんのうた』は、幽霊の話だ。
だけど、これが「幽霊の話」かどうかの判断は、あくまでも観客に委ねられている。
「これは幽霊の話なんかではない」
と言う人も必ずいる。そもそも幽霊とは、そういうものだから。
死者と生きている者との距離と言い換えてもいい。ついこの間まで、自分自身と密着するように生きていた親しい人が、死んだ時。生者ー「あなた」は、どこへいくのか?
映画の中で、さっちゃんは、その距離を漂よい、あるいは彷徨いながら、見えない糸を手繰り寄せていく…。
冒頭で、わたしを起こした夢は、その日に見た『春原さんのうた』をよくは咀嚼できなかった自分の頭が見せた「解釈」ではないかと思う。そして、その解釈は、もう一つのよくは理解できもしなかった映画をも結びつける。
『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介監督
原作村上春樹
白状しますが、わたしは、村上春樹の本を2冊しか読んだことがない。40年ほど前に『風の歌を聞け』を読み、30年ほど前に『アンダーグラウンド』を読んだだけだ。マンガ評論家だったとき「仮にも物を書いている人間が村上春樹も読まないなんて!言語道断だ!」と怒られたこともあるけど、読んでないものは読んでいない。
この度、世界的な話題作となった『ドライブ・マイ・カー』も(村上春樹か…)と当初は、なんとなく回避する気持ちが強かった。しかし、映画を見た友達が「長い映画だけど、全然そう感じないよ!見た方がいいよ」と話していて、興味を持った。
世界的な評価は、小さな映画である『春原さんのうた』を遥かに超える。米アカデミー賞の候補にもなり、大きな映画としての地位を獲得しようともしている。
3時間近い長尺だが、確かに見ている間、全く長いとは感じながったし、いやむしろわたしは(ずっと観ていたい)と思った。こちらの映画もいわゆるエンタメ系とは言えない、わかりやすい説明もストーリーもない、「春原さん」よりはもっとずっと明確に「難解な映画」の範疇に入るだろう強烈な作者の意思と意図的な構図の中にあるのに。ずっと「その世界の中にいたい」と思わせるのだ。
『ドライブ・マイ・カー』の主題は、タイトルのままだ。主人公の家福は車を運転する。あるいは、雇われ運転手のみさきと車で旅をする。
そうして、彼らもまた死者との対話をし続ける。東京で突然妻を失った家福。北海道で唯一の家族である母親を災害で失ったみさき。
二人とも死者に対して、言葉にできない葛藤を抱えて生きてきたが、もう会えない人に、話を聞いてもらうことはできないし、互いの間にあった問題を解決することもできない。
映画を見る、わたしにも死者のことはわからない。だが、生きて画面に写っている家福やみさきの中にー存在する人ーを想像することはできる。
『ドライブ・マイ・カー』は、複雑な構成と意図を持っていて、さまざまな角度からさまざまに語ることが可能な映画で、そこがまた高く評価される要因だと思うが、やっぱりズバリ言って、一つの側面では「幽霊の話」だ。
もう会うことは叶わなくなった死者を思うとき「あなた」であり「わたし」は、どこにいくのか、もしくはどこにいるのか。幽霊は、そこここに立ち現れる。その死者の扱いは、もう一人の主要な登場人物、高槻に知らない間に殺されてしまう通りすがりの男ーについても同様だ。彼の「生」と「死」はどのように扱われるのか。(ただ画面から消えた。まさしく彼は、観客にとっても映画の中でも幽霊でしかいられない)
そして、それは、死者のことであるのか、生きている自分自身のことであるのか…曖昧に境界線が曖昧に、ぼやけていくとき。
つまりそれは「この世界の物語」なのだとー映画は、告げる。
この世界の物語だからこそ、見ているわたしは、永遠に見ていたくなる。どこまで続くのか、果たして、続いていくのか。もしかして途切れてしまうのか。そう彼らの車に乗った旅のように。
生きている者の側の、生きている実感は、「生きている」だけではわからない。生と死は、まるで別のもののようで、実は同じなのではないかと。わたしは、ある時期からずっと感じているけれど。
たった今、世界は、生と死の間で、苦しみ、軋んでいる。新型コロナ感染症の脅威と間断なく続く、紛争という名の戦争は、ロシアの独裁者プーチンの決断によって、対岸にいると思い込んでいたわたしたちの裾に火をつける。知らない間に燃え移った炎は、あっという間に、衣服を包み込んでしまうかもしれない。
たった今生きているわたしは、明日死んでいるわたし。
緩慢だったはずの 延々と続くだけだったはずの、退屈だったはずの 世界はー本当は、いつもヒリヒリと冷たく、ジリジリと焼かれるように痛んでいるのかもしれない。
でも、それでもなお。生きている側にある、わたしは、生きてみようとするしかない。希望というより、諦めと似ているだけだとしても。
わたしたちを繋ぐものは、ただの電子空間の言葉だけ。
おそらくはこの世界では、もう会うこともできない。
大切なことをたくさん教えてくださった Y夫妻に捧げます。
いつか、きっと必ず、どこかでお会いしましょうと。