『川っぺりムコリッタ』荻上直子監督作品ー食べなさい、そのキュウリを手に取って食べなさいーと映画を見ながら、わたしは祈ったのだったー
荻上直子監督の映画は大好きだ。
『かもめ食堂』(2006)は、映画館で確か2回見て、テレビ放送でも2回見た。何度見ても飽きない。デビュー作の『バーバー吉野』(2003)は、たまたま深夜テレビで見たが面白かった。
『めがね』(2007)は見てないけど『トイレット』(2010)と『彼らが本気で編むときは』(2017)は映画館で見た。どちらもとても好きだった。
『レンタネコ』(2012)も良かったし、テレビドラマの『珈琲いかがでしょう』も監督演出ということで、全部見た。大変面白かった。
荻上監督は、1972年生まれで62年生まれのわたしからは、ちょうど10歳下になる。ゼネレーションとしてはギャップがあるはずだが、映画を見ていてあんまり感じたことはない。むしろ、ただの観客なのに変な話だが、親近感を持つ。
なぜか、は、わかっている。
第一に、彼女の映画には、必ず「食べ物」が、出てくるからだ。
それも「人がおいしく食べる」ためにこそ。それらは、まるで主人公のように扱われているからだ。
わたしは、物心ついたときから「食べ物」が出てくるあらゆる物語が大好きなのだった…。
第二に、彼女の映画には、必ず「何かを作る」もしくは「手作業で何かをする」場面が登場する。『かもめ食堂』は、カフェ自体を作るところから始まり、小林聡美が料理を作り、シナモンロールを焼き、コーヒーを入れる。
そして、片桐はいりが、せっせとテーブルを拭くー隅々まで拭く。何度も拭く。何度でも整うまで。
『トイレット』では、もたいまさこが餃子を作ったり、色々美味しそうなお料理をやっぱりするんだけど、主人公の一人の男の子が、スカートを作る。自分が履くためのスカートを延々と作り続ける。
『彼らが本気で編むときは』では、母親にネグレストされた子供が、コンビニのおにぎりを食べるシーンが重要な意味を持っていたが、主人公の凛子さんはずっと編み物をしている。これも延々と編んでいる。
わたしは、それらの「手で作られていくものたち」の様子を見るのが、好きだった。ずっと見ていたいような気持ちで。
今回の新作(KADOKAWA映画!)『川っぺりムコリッタ』も、そんな荻上ファンの期待を裏切らないーというよりむしろもっと強く、積極的に迫ってくるーと言ってもよい。
何かしらの事情があり、刑務所から出てきたらしき若い男ー山田は、海沿いの水産加工場で働き始める。まずもって映画の始まりと同時に山田が始めることは「イカを捌くこと」なのだ。
昨今、めったなことでは、台所でイカを捌くこともないだろうから、わからないかもしれないが、生のイカを扱うのは、初心者にはかなり難しい。一日二日では、工場の生産ラインに乗せるようなスピードにはならないはずだが、山田はなぜか一日で覚えてしまう。頭は悪くなく、手先も器用なことがわかる。
天涯孤独らしい彼は、工場で働く以外は、誰にも会わず、そもそもめったに話もしない。生きる気力もないようだ。すぐにもどこかに消えてしまいそうな気配。住居となった「ハイツムコリッタ」の部屋も食べ散らかしたコンビニ弁当やカップラーメン、スナック菓子の袋が散乱し、無気力を表している。
見ているだけで心配だ。どうするんだよ。山田くんよ。大丈夫じゃないよ。死んでしまうんじゃないだろうか…
そんな風に横たわっている彼の傍に、隣の住人、島田さんが家庭菜園で作った野菜が届けられる。
「差し入れだよ。食べないとダメだよ」(セリフは曖昧な記憶)
畳の上に、きれいな赤いトマトと濃い緑色のキュウリが転がっている。
美しく、瑞々しい。赤と青(青物とは緑色の野菜のことだ)
(食べなさい。食べなさいよ。山田くん)
いや違う
(食べろ、食べるんだ、山田)
祈るように、スクリーンを見つめる。
その刹那に、あたしには、わかったんだ。
この映画にとって、山田にとって、その緑色のキュウリを手に取って食べるか食べないかが、つまり
「生きるか死ぬかの分かれ道」
なんだって。
さていかに? 顛末は、どうぞ映画をご覧になってみてください。
生きるか死ぬかの分かれ道に、一緒に立ってみたら、きっと見えるものがある。きっと…。
ちなみに、山田くんの手先の器用さは、もらったキャラメル一個の包み紙を「折り鶴」にしてしまうほどだった。
以前に書いた『彼らが本気で編むときは』の感想もあります。読んでみてね。