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偶像から離れよ(1)(第二説教集2章1部試訳1) #76

原題: An homily against Peril of Idolatry, and superfluous Decking of Churches. (教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教)

※第1部の試訳は3回にわけてお届けします。
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら:


はじめに~第1章の振り返り

 神の神殿である教会堂ではどのような姿勢を持つべきであるかについては、この前の二つの説教のなかで詳しくお話しました。そのなかでは神の家である神殿を正しく使用することについても、またすべての真のキリスト教徒がそこで献げるように求められる敬虔さについてもお話しました。お話したことをまとめます。神の家である教会堂は聖書によって定められた場所です。そこでは神の生ける御言葉が読まれ説かれて耳が傾けられるべきであり、神の聖なる御名が人々の祈りを通して唱えられるべきです。神の御稜威においてわたしたちに注がれるその無限にして言葉にできようもない御恵みに対しては心からの感謝が向けられるべきであり、神の聖奠が正しく敬虔さをもって執り行われるべきです。それゆえ真に信仰深い人々はすべて定められた時に勤勉さをもって教会堂に集まるべきあり、そこであらゆる敬虔さをもって神の御前に自身を献げるべきです。

教会堂は豪奢な装飾によるのではない

神の御恵みのなかにある教会堂は信仰深い神の僕たちによって神への真の奉仕のために使用されるところです。神はその聖なる御言葉と約束によって、そこに集う人々に必要なこの世にあっての御恵みについてのみならず、天上にあるあらゆる贈り物や永遠の命についての知識を授けておられます。それゆえにそこは神の御言葉において名実ともに神の家である神殿と呼ばれています。そこにあるべき敬虔さが信仰深い人々の心に備わるのはこの神の神殿で自らの姿勢について考えることによってであり、決して外面的な儀式や、この神の家である神殿にある高価で豪奢な飾り物によってではありません。そのようなものは聖書にある教えにも反しますし、極めて純粋で腐敗のなかった初期の教会堂での使用の在り方にも反しますし、後に詳しくお話しますが、はるか昔の学識のある教父たちの言葉や思想にも反します。

教会に多くの偶像が持ち込まれている

今のこの時代の腐敗のなかで、教会堂にはおびただしい数の神を象ったものが持ち込まれてしまっています。それらは教会堂にある他のものとともに金銀で飾り立てられ、さまざまに彩られて宝石や真珠を施され、絹などの高価な覆いをかけられています。あろうことか神の家である神殿の主たる装飾や意匠であるとされており、教会堂の隅々が豪奢であり金や高価な宝石できらびやかであるというところに、敬虔な心を揺さぶられてしまっている人も多くいます。実際にそのような人々は、聖像などの教会の華美な装飾に目を奪われてしまっているので、分別があってよく教えに適っているならば授かるはずのものを何も得られません。

罪と知りながら人は偶像崇拝に走る

このような装飾は素直で信じ込みやすい人々に大いに害を及ぼし、極めておぞましい偶像崇拝をさせるに至っています。このような装飾があるなかで、聖像のみならずそのまわりにある金銀に目がいってしまう人もいます。彼らは特に神に似せたものを拝むことを指して聖書のなかで禁じられている偶像崇拝を、あらゆるもののなかで最たる悪徳であるとされているとわかっていながらそうしています。ただ崇拝するふりをしているだけであると思いたいところですが、本当に心から崇拝してしまっているのかもしれません(エフェ5・5、コロ3・5)。

第2章の枠組み

そのような淫らな行いや大いなる過ちを戒めるべくみなさんにその根拠としてお示しするのは、第一には旧約聖書はもとより新約聖書にもある神の聖なる御言葉です。第二にはいにしえの聖なる教父たちや博士たちの告白です。これらは彼らの著作や古代の教会史にみることができます。みなさんがすぐに彼らの言葉であるとわかるであろうものであり、極めて純粋で真摯であった初期の教会にはどのような姿勢がみられていたのかを伺い知れるであろうものです。第三には聖像や偶像そのものや、教会を金や銀や真珠や高価な宝石でけばけばしく飾り立てることを擁護しようとする論説や主張への論駁です。これによってこの問題についてのお話は完結します。

「エイドローン」と「イマーゴ」

 しかし言葉や呼び名によって曖昧さを持つことのないように、いちばん初めにここではっきりとさせるのが良いと思うことがあります。わたしたちは一般的に、人物であれそれ以外のものであれ、それに似せて作ったものを偶像ではなく聖像と呼んでいます。しかし聖書では偶像と聖像というこの二つの用語が特にこだわりなくほぼ同じものを指すために用いられています。この二つの用語はさまざまな言い回しや音の響きを持っているものではありますが、聖書においては意味するものや指し示すものが同じなのです。これはギリシア語で偶像を意味する「エイドローン」という語と、ラテン語で似姿を意味する「イマーゴ」から取られているものですが、この両者とも聖書を翻訳する際にはこだわりなく英語で用いられています。

「似姿」を意味するラテン語

七十人訳聖書がギリシア語の「エイドローン」を用いているのですが、聖ヒエロニムスはそれと同じところにラテン語で英語の「似姿」にあたる「シムラクラ」をあてています。新約聖書で聖ヨハネが「エイドローン」としているところを聖ヒエロニムスは聖書の他のところと同じく「シムラクラ」としています。かなり昔の時代に生きた博士であり、ギリシア語とラテン語の両方によく通じていたテルトゥリアヌスは聖ヨハネの言葉を「偶像から身を守りなさい(一ヨハ5・21)」としているのですが、これは神に似せたものそれ自体を指しています。彼が用いたラテン語は「エフィギース」や「イマーゴ」で、つまりは「似姿」を意味するものです。

「聖像」も「偶像」も大差ない

このようにみると、わたしたちがどちらを用いようが、あるいは現代の英語にはないにしても聖書にはあることなので両方とも用い、その両方が同じ意味を持つことになってしまおうが、問題とはなりません。なかには、無知の人々に信仰を説くにあたって、多くの意味を持った言葉であるのほうが都合がよいとして、それらを巧みに操った者もいます。神殿などで異教徒たちに立てられ崇拝の対象とされたそれと似たようなものを偶像と呼ぶ者もいたのですが、彼らは祈りの場としての教会堂にあるそれと同じようなものを聖像と呼んでいました。偶像と聖像という二つの言葉は妥当さにおいても意味するところにおいても大きく異なるのに、先ほども述べましたとおり、特に聖典や信仰についての書物では、音の響きや単語そのものとして異なるのみで、実際には一つの意味であってしまっています。聖像を置くことが教会堂や神殿で公に許されてしまいますと、それらはこれからさきも崇拝されて偶像崇拝が行われることになってしまいます。このことはこの説教の最後のところで詳しくお話します。偶像崇拝がこれまでもいまもこれからも行われることになるのですから、教会堂という神殿にある聖像は実際には偶像であるにほかなりません。

旧約聖書には偶像崇拝への戒めがある

 旧約聖書には、聖像を崇拝することを含めてのあらゆる偶像崇拝も、また特に神殿にある偶像や聖像それ自体もともに忌み嫌っている箇所が数多くあります。旧約聖書にあるそのような箇所すべてを挙げるのはほとんどできようもなく、そうするには紙面が足りなさすぎます。神はご自身を知らず偶像や偽りの神を崇拝するあらゆる国々から特に人々をお選びになったとき、偶像などについて人々が守り続けるべき戒めや律法をご自身で授けられました。心から神を崇敬し、偶像など神に似せて造ったものを崇拝しないようにとすること以上に熱くて力のこもった律法を、神は他のどんなことについてもお与えになってはいません。偶像崇拝は神とその真の栄光を正しく讃えることにかかわるあらゆる悪徳にまさって不快なものであり、神はその極めておぞましく忌み嫌うべき悪徳に向かってしまう人間の腐敗した本性をご存じでした。神がこの事柄にかかわって人々に与えられた戒めや律法のうち、特にみなさんがそれによって安心を持つことになる箇所を読み上げましょう。

『申命記』にみる~神の戒めを守る

 『申命記』の第四章には特に読み上げるべき勤勉さが記されている箇所があります。その冒頭はこうです。「イスラエルよ、今、私が守るように教える掟と法に耳を傾けなさい。そうすればあなたがたは生き、あなたがたの先祖の神、主が与える地に入り、これを所有できるであろう。あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。私が命じるとおり、あなたがたの神、主の戒めを守りなさい(申4・1~2、民22・18、35、38)。」このあとモーセは自身が特に人々に警告したいことを言う前に、これと同じ言い回しを三度か四度繰り返し、人々にそれをよく留意させようとしています。モーセはこう言います。「あなた自身くれぐれも気をつけ、注意を払い、目で見たことを忘れず、生涯、心から離さないように努め、それらのことを子や孫たちに語り伝えなさい(申4・9)。」

『申命記』にみる~神の形を見ず

このすぐあとにはこうあります。「あなたがたの神、主は、火の中から語りかけられた。語られる声をあなたがたは聞いたが、声のほかには何の形も見なかった(同4・12)。」そして次のように続きます。「あなたがた自身くれぐれも気をつけなさい。主がホレブで火の中から語りかけられた日、あなたがたはいかなる形も見なかった。堕落して、自分のためにどのような形の彫像も造ってはならない。男の姿も女の姿も、地上のいかなる獣の形も、空に羽ばたく翼のあるいかなる鳥の形も、地の上を這ういかなる生き物の形も、地の下の水に住むいかなる魚の形も造ってはならない。また、目を天に向け、太陽や月、星などの天の万象を見て、それらに惑わされ、ひれ伏し、仕えないようにしなさい。それらは、あなたの神、主が、天の下のすべての民に分け与えられたものである(同4・15~19)。」

『申命記』にみる~神を象るべからず

さらに続きます。「あなたがたは気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の彫像も、自分のために造らないようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火、妬む神である。もしあなたが子や孫をもうけ、その地で年を取り、堕落してあらゆる形の彫像を造り、あなたの神、主の目に悪とされることを行い、主を怒らせるならば、私は今日あなたがたに対して、天と地を証人として呼び出す。あなたがたは、ヨルダン川を渡って行って所有する地から取り去られ、たちまち滅び去る。あなたがたはそこで長くいきることはできない。必ずや滅ぼされる。主は、あなたがたをもろもろの民の中に散らされる。しかし、主が追いやる先の国々で僅かな者は残される。あなたがたはそこで、人の手で造られた神々に仕えなければならない。それらは木と石でできていて、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐこともできない(同4・23~28)。」

『申命記』にみる~神の罰を恐れる

そのあともさらに続きます。ここは注目すべき箇所であり、先に述べました事柄についてほとんどすべてを答えています。とはいえ、すべてを述べるにはあまりにも長くなりますので、わたしはみなさんにここからいくつかの大切な点のみをお話しましょう。一つ目ですが、モーセはどれだけ熱心に、魂の危うさにかかわって自身が与えた義務に対してよく注意を払うようにと人々に向かって繰り返し呼びかけていることでしょうか。二つ目に、モーセは天と地と水の中にあるあらゆるものについての荘厳にして縷々とした弁舌によって、何かに似せたものについては、いかなるものであっても造ることをどれほど禁じていることでしょうか。三つ目として、モーセは人々がここで述べた戒律に反して、彼が極めて固く禁じている似せて造られたあらゆるものを崇拝した場合について述べています。天と地にあるものを引き合いに出しながら、人々やその子や孫たちに対してどれほどの罰や恐ろしい破滅を、荘厳さをもって宣告して震え慄かせていることでしょうか。

『申命記』にみる~神の呪いを恐れる

こういったことにもかかわらず、人々は腐敗した本性によって偶像崇拝に大きく傾き、身近に住まう偶像崇拝者であるユダヤ人など異教を奉じる人々に影響されて、偶像を造ってそれを崇拝するというところに堕ちました。神はその御言葉のとおりに、人々を震え慄かせるあらゆる災厄をもたらされたのですが、これは歴史書やモーセ五書のあまたの箇所に詳しく書かれてあるとおりです。『申命記』の第二十七章には次のように書かれています。「『職人の手の業である、主の忌み嫌われる彫像と鋳像を造り、ひそかに安置する者は呪われる。』民は皆、『アーメン』と言いなさい(申27・12)。」


今回は第二説教集第2章「教会をいたずらに飾り立てて偶像崇拝を行うことの危うさについての説教」の第1部「偶像から離れよ」の試訳1でした。次回は試訳2をお届けします。最後までお読みいただきありがとうございました。

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