神から出た霊を信じよ(第二説教集16章2部試訳) #165
原題:The Second Part of the Homily concerning the Holy Ghost, dissolving this doubt; whether all men rightly challenge to themselves the Holy Ghost, or no. (聖霊についての説教の第2部、すべての人間は聖霊に正しく対しているかという疑問に答える)
※タイトルと小見出しは訳者によります。
※原文の音声はこちら(Alastair Roberts氏の朗読です)
(15分17秒付近から):
聖霊は弁護者として遣わされた
救い主キリストはこの世を発たれて父のもとに行かれるときに、ご自身とはまた別の弁護者を遣わすことを弟子たちに約束なされました。その弁護者は永遠に彼らとともにあり(ヨハ14・16)、彼らをあらゆる真に導くとされました(同15・26)。このことがみ言葉のとおりに為されることを聖書は存分に見せています。この弁護者が約束されていたのでもなく、使徒たちのみならず全世界に広がるキリストの普遍的な教会に送られたものでもないとは、わたしたちは考えていません。そもそも聖霊が存在せず、教会を統べても保ってもいなかったら、教会があまりに多くのひどい苦難や迫害の剣先に耐えるにおいて、今日と同じ程度のごく小さな損害や痛みを感じるのみとは決してならなかったでしょう。これについてのキリストのみ言葉は極めて明確で「この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである(同14・17)」とあります。
聖霊にかかわるローマ教会の誤謬
また、十字架上の死を前に父に献げた祈りにおいて、キリストはご自身や使徒たちのためにだけではなく、使徒たちの言葉によってご自身を信じるすべての人々に対して偏りなく、つまりご自身の教会すべてに対して執り成しをなされています(同17・20~21)。聖パウロは「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません(ロマ8・9)」と述べ、加えて、「この霊によって私たちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです(同8・15)」としています。聖霊が使徒たちのみならずキリストの会衆という四肢全体に与えられていることは明らかです。しかしここで疑問が生まれます。聖霊が自分の内に宿っていると偽っている者もいるのではないだろうかということです。ローマの司教たちは長い間この問に取り組んで結論を出しています。彼らが言うにはこうです。「聖霊は教会に対して約束されたものであるから、教会を見捨てることはない。我々は教会の首脳であり根幹であるから、聖霊は我々のところに永遠にあるのである。我々が発するものは聖霊の語ることであり、すべて疑いのない真理なのである。」みなさんはこの主張の脆弱さに気付いているでしょう。まずはみなさんにキリストの真の教会とは何であるのかをお話し、次いでそれをもとにローマの教会を見て、果たしてこの両者が合致するものであるか確かめることが必要です。真の教会とは神に忠実な選ばれた人々の普遍的な会衆や集合を言うのであり、使徒や預言者たちをもとにしつつイエス・キリストご自身がその親石となっているものです(エフェ2・20~21)。
教会の三つの徴~教理、聖奠、規律
教会は三つの徴があることで真であるとされます。その三つとは純粋で健全な教理と、キリストが聖とし定められたところに従って執り行われる聖奠と、教会規律の適切な運用です。教会の何たるかは聖書のみ言葉に加えて、古い時代の教父たちの言葉にもあるのですが、これらを誤りとする人は誰もいないでしょう。みなさんがこれに基づき、かつてのではなく九百年の時を経た今現在のローマの教会を見れば、その有様が真の教会が持つべき本性から大きく離れていて、もはや別物となっていることに気付くでしょう。ローマの教会は使徒や預言者たちの土台の上に立ってはいませんし、キリスト・イエスの純粋で健全な教理を保ってもいません。聖奠にも教会規律にも、キリストが始めて定められたところに見られる秩序がありません。それどころか、こじつけて変えることによって、また、付け加えたり削ったりすることによって、自分たちが造り出した勝手な伝統を織り交ぜて、今や全く別の姿となっています。キリストはご自身の教会に肉と血の聖奠を行うようにとされましたが、ローマの彼らはそれを生ける者と死せる者のためのいけにえとしています。キリストが使徒たちに執り行われたように、使徒たちはあまねく他の人々に二種類の聖奠を執り行ったのですが、彼らは信徒たちから杯を取り上げて一種類だけで十分であるとまでしています。キリストは洗礼にあっては水のほかのものを用いられませんでしたので、聖アウグスティヌスが言うように、その際に言葉を付け加えれば、それで十全な聖奠となります。ローマの教会は悪だくみがあるという意味でキリストよりも賢いと言えるのですが、呪文を用いなければ、水を崇めなければ、また、油や塩や唾や蝋燭をはじめとする無意味な道具がなければ洗礼の意味をなさないとしています。これは聖パウロが、あらゆる事柄が教会で為されることで人々を教化しようと望んで定めた簡素な決まりごととは反対のものでした(一コリ14・5)。
権能を好き勝手に乱用するローマ
キリストは罪深い者を破門することについても、またその者が真に悔い改めるにあたって赦すことについても、権限を教会に授けられました。しかしローマの彼らはこの権能を好き勝手に乱用しました。ベルや本や蝋燭など、こういったものをむやみに欲する者たちが心のよりどころにしてしまうものをもって信仰に篤い人々の心を乱しました。そしてキリスト教社会にとって害であると考えられるあらゆる者の罪を赦しました。救い主キリストが福音書のなかで徴税人やファリサイ派に語られていることを見ればわかります。それと同じ言葉が堂々とかつ健全な良心をもって、ローマの司教たちに対しても向けられるべきです。彼らは神の戒めをすでに捨て去り、いまもなお捨て去ったままで、自分たちの身勝手な決まりごとの上に立っています。み言葉の光を見て神に告白をしなければならないのですから、聖アウグスティヌスの説に照らせば、ローマの司教とその一味は実のところ真のキリストの教会ではなく、ましてその教会の指導者でも統治者でもないと結論づけることができます。彼らが自分の内にあると頑強に主張する聖霊はどこにあるのでしょうか。彼らを過ちに至らせる真の霊などどこにあるのでしょうか。それは真の教会がないところにあり、それこそがローマであり、そのようなものは空しい自慢話のほかの何物でもありません。みなさんはすでに耳にしていることですが、聖パウロは「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません(ロマ8・9)」と述べています。これは言いかえれば「キリストに属さない者は、キリストの霊を持たない」ということになります。誰が真にキリストに属していて誰がそうでないのかを見分けるために、「羊はその声を聞き分ける(ヨハ10・3)」という言葉があります。聖ヨハネは「神から出た者は神の言葉を聞く(同8・47)」とも述べています。これに従えば、その行いをみてわかるとおり、教皇たちこそがキリストの声を聞かず、神のみ言葉ではなく自らの教条に拠り、キリストによらずその霊にもよっていないことを世にありありと示す者です。
使徒たちに基づかないローマ
キリストの約束によって聖霊が教会に授けられたというのをいいことに(同16・7)、彼らは使徒たちが耳にすることのなかった多くの事柄があるとわが身のために主張しています。いつの時代においても聖霊による天啓が説かれているので、聖書に書かれていない多くの大切な事柄もあるとも言っています。このことに対して、わたしたちはキリストのはっきりとしたみ言葉によって簡単に断言することができます。聖霊の正しい働きとは以前に説かれたキリストの教義に反した新しい秩序をもたらすことではなく、以前に説かれていた事柄を真に深く理解することができるように広めることであるとみ言葉にあります。「その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる(同16・13)」のです。真理の霊はどのような真理をみせてくださるのでしょうか。キリストがすでにみ言葉で語られた以上のことを語るのでしょうか。そうではありません。キリストは「その方が私のものを受けて、あなたがたに告げる(同16・15)」と言われています。言い換えれば、「その方はわたしがあなたがたに語ったすべてのことの記憶をあなたがたにもたらす」ということです。聖霊についての偽をもって教会に絵空事を持ち込むのはキリスト教徒のすることではありません。キリスト教徒は教義や教条をキリストの聖なる書に沿うように持つべきです。そうしなければ、聖書を記されたのが聖霊であるとすることに照らして聖霊を大いに冒瀆して貶めることになります。
ローマ教皇に聖霊は宿っているのか
さて、教皇たちの偽りについての話を終わりにして別のお話に移ります。わたしたちは教皇たちの見るに堪えない高慢さをどのようにとらえるべきなのでしょうか。聖書には「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになる(ヤコ4・6、一ペト5・5)」とあります。また、「心の貧しい人々は、幸いである(マタ5・3)」とあるように、慎ましい人を高くみることを約束しています。救い主キリストはご自身について「私は柔和で心のへりくだった者(同11・29)」とされています。高慢ということについて、聖グレゴリウスはこれをあらゆる害毒の根源であるとしており、聖アウグスティヌスの考えでは、これは人間を悪魔にするものであるとされています。
教皇たちの生活について読んだことがある人も、これから読む人も、彼らが聖霊とともにあると言うことができるのでしょうか。彼らが世界中のキリスト教会すべてにとっての普遍的な司牧であり指導者であるとされていることにかかわっては、彼らを断じる聖グレゴリウスがいます。彼は皇帝マウリキウスに宛てて、コンスタンティノープル総主教であるイオアンニス四世を、高慢の王でありルシファーの後継者で、反キリストの先導者であるとしています。聖ベルナルドもこれに意見を同じくして、「一人の人間が、あたかも自身が神の霊であるかのようにして、人々の考えをさておき、自身の考えをのみよしとするということよりも大いなる高慢があるのだろうか」と述べています。聖クリュソストモスも教皇たちに対して厳しい言葉を発しています。地にあって頭となることを求める者は天にあって狼狽するということや、この世での高い地位を求めてあがく者はキリストに仕える者として認められることはないということを言っています。さらには、「善き行いを求めることは善いことであるが、誉れを多く望むのは極めて空しいことである」とも述べています。
ローマ教皇の蛮行と愚行~その1
このような言葉は、王や皇帝たちのみならず、司教などの聖職者も含めて、自身を他の何者よりも高みにあるものとする者たちの法外な高慢さを厳しく断じるものであるのではないでしょうか。獅子がその爪によって知られるように、わたしたちはこのような者たちをその行いによって知ることができます。高貴な王であるダルダノスの首を鎖で巻き、彼を食卓の前でひれ伏させ、犬がするように骨をかじらせる者を見たらわたしたちは何と言うでしょう。そのような者に悪魔の霊ではなく神の聖なる霊が宿っているとわたしたちは考えるでしょうか。そのようなことをする暴君が教皇クレメンス六世です。皇帝フリードリヒ二世を自慢げにまた軽蔑するように足で踏みつけ、『詩編』から「あなたは獅子とコブラを踏みつけ、若獅子と大蛇を踏みにじる(詩91・13)」と口ずさむ者を見たらわたしたちは何と言うでしょう。そのような者に悪魔の霊ではなく神の聖なる霊が宿っているとわたしたちは考えるでしょうか。そのようなことをする暴君が教皇アレクサンデル三世です。父に反抗するようにと子を唆して武器をとらせ、神の法や自然の法に反して、父を引きずりおろして残忍にも命を奪い死に至らしめる者を見たらわたしたちは何と言うでしょう。そのような者に悪魔の霊ではなく神の聖なる霊が宿っているとわたしたちは考えるでしょうか。そのようなことをする暴君が教皇パスカリス二世です。狐のように教皇の地位をつかみ、獅子のように君臨して犬のように死ぬ者を見たらわたしたちは何と言うでしょう。そのような者に悪魔の霊ではなく神の聖なる霊が宿っているとわたしたちは考えるでしょうか。そのような暴君が教皇ボニファティウス八世です。
ローマ教皇の蛮行と愚行~その2
ハインリッヒ四世を皇帝につけるのに、その妃と幼い子を凍てつく冬に麻布をまとわせただけで靴を履かせずに裸足で城門に立たせ、三日にわたって朝から晩まで何も食べさせない者を見たらわたしたちは何と言うでしょう。そのような者に悪魔の霊ではなく神の聖なる霊が宿っているとわたしたちは考えるでしょうか。そのような暴君が、もしわたしたちが冠をつけるならば教唆者と呼ぶに相応しい教皇イルデブランドです。このような例は他にも多くあって、女教皇ヨアンナは淫売で大聖堂に向かう途中の通りで子を産み落としました。教皇ユリウス二世はわざとテベレ川に聖ペトロの鍵を投げ入れました。教皇ウルバヌス六世は五人の枢機卿を袋に入れて残忍にも溺れ死なせましたし、教皇セルギウス三世は八年も前に埋葬された教皇フォルモススの遺体を辱めました。教皇ヨハネス十四世に至っては、対立者が自らの手に落ちたときに、身ぐるみをはがして裸にして髭を剃り落とし、その髭で一日にわたって吊るしました。これでは飽き足らず後ろ向きにして驢馬の上に乗せて町中を歩かせ、見るに堪えないほどに棒で打ちのめしたあげく、国から追放して二度と人前に出なくさせました。
サタンでさえ光の天使を装う
まとめとして最後に、みなさんにひとつの短い教訓をお話しましょう。傲慢で高慢な心や、妬みや嫌悪や侮蔑や残忍さを持った心をもって、殺人や強奪や魔術や口寄せなどといったものを目にしたとします。そのようなことをする者がこれ以上にないほどに聖であるように見えるとしても、そこにあるのは悪魔の霊であって、神の霊ではないと確信するべきです。福音にあるとおり、イエスの霊は善の霊で聖なる霊であり、甘美な霊でへりくだった霊であり、慈悲深い霊です。愛と慈しみに満ち、赦しと憐れみに満ちていて、悪に対して悪を為さず、極端に対して極端を為さず、むしろ善をもって悪に打ち勝ち、心のあらゆる怒りを和らげます。これに倣って自身を正して生きていれば、誰でも自身の内に聖霊が宿っていると自然に言葉にすることができます。反対にそう生きていなければ、聖霊のみ名を外面的に無為に唱えるのみとなります。聖ヨハネの言葉を聞きましょう。「愛する人たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい(一ヨハ4・1)。」また、キリストは「私の名を名乗る者が大勢現れ(マタ24・5)、」「できれば、選ばれた人たちをも惑わそうと(同二四・二四)」していると言われています。「サタンでさえ光の天使を装うのです(二コリ11・14)。」
まとめと結びの祈り~実で見分ける
彼らは羊のようにして現れますが、その実は残忍で貪欲な狼です。彼らはみなさんがほとんどまったくその正体に気付かないようにと、外面的には大いなる聖や純粋な命があるように見せます。しかしそのようなときは「あなたがたはその実で彼らを見分ける(マタ7・20)」という言葉に従うべきです。邪で悪であるのですから、その木が結ぶ実が良いものであるはずがありません。ローマの教皇やそのとりまきの司教たちもみなこれと同じであり、彼らの言行に見ることができるとおり、間違いなく世を長く欺いている偽りの預言者であり偽のキリストです(ルカ21・8)。天地を統べる神はわたしたちを彼らの暴政や傲慢から守り、愚かで哀れな者たちの争いの中に至ることのないようにしてくださります。彼らが神のぶどうの園に入ることは決してありません。彼らは狼狽してこの世のいたるところで争いを起こします。しかし神は無辺のご慈悲をもって、また聖霊の大いなる力をもって、すべての人の心の内にみ業を為されます。み子キリストの慰めある福音が真に説かれ、真に広められ、世のいたるところで真にそのとおりとなり、罪や死を、教皇や悪魔やあらゆる反キリストの国々は討ち滅ぼされます。散り散りになった羊たちがまた一つのところに集まるごとく、わたしたちはついにはアブラハムやイサクやヤコブのふところに憩い、そこで永遠の命を受けることになります。救い主キリストの功績と死を思いましょう。アーメン。
今回は第二説教集第16章第2部「神から出た霊を信じよ」の試訳でした。これで第16章を終わります。次回から第17章に入ります。最後までお読みいただきありがとうございました。
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